その中のお一人に古民家・古道具が大好きな一級建築士の方がおられて、二階の座敷の造りをお褒め頂いた。そのあと同氏のブログでわたしの家訪問を記事にして「菊籬(きくまがき)」というタイトルで二階座敷書院造りの天袋の意匠と欄間をご紹介頂いた。
わたし自身「菊籬」という言葉は、いつかどこかで聞いた気がして検索してみたら、「菊籬」の意味と宮尾登美子の小説「菊籬」が出てきた。※「菊籬(きくまがき)」とは、菊の垣根のことです。
そこで、わたし自身もう一度天袋の図案をジックリ眺めていたら「霞岳山民」という銘があった。
わたしの家には一階座敷の間に「霞岳山民」描くところの扁額が掛かっている。
その他に春慶塗の絵と賛入りの会席膳が5席ある。この扁額には「霞岳山民」の銘が書いてある。 いづれの年号も昭和辛未とある。調べてみると昭和6年である。住まいを建てたのも同じ昭和6年なのである。
察するところ、家を建てた昭和6年に天袋を彼が意匠し、建築記念に扁額と春慶塗の絵・賛入りの会席膳を拵えたモノに違いない。そう思えてならない。
さすれば親父もかなりの数寄者だったか、凝り性だったと思える。そういえば、親父から戦前漆器問屋を営んでいたとき、漆器の職人さんを抱え、彼らに自分の企画を商品化させて販売したようなハナシを聞いたことを想い出した。もし、本当にそうであれば、かなりのアイデアマンだったとも言えそうである。凝り性の性格は子供のわたしにも受け継がれていることは自認する所である。
それはいいとして、霞岳山民なる画家の手がかりが皆目分からない。おそらく郷土出身の日本画家だと当たりを付けて調べてみたが、検索ではつかめない。姓が分からないからである。
そこで、郷土の日本画家で昭和辛未(6年)頃活躍していたことと推測して、それをキーワードにして海南市の該当部署に照会を掛けたら、下記のような回答が返ってきた。
やはり、郷土海南市出身の日本画家で昭和6年35歳の若さで早世した惜しまれる才能の日本画家ということである。
”ひょうたんから駒”というが、眠り続けていたモノが、息を吹き返して眠りから醒めたということである。NHK流にいえば、歴史の秘話というべき物語であり、寒い冬眠から醒め、作品群にも目覚めの春が到来した目出度いお話なのである。なお、銘「霞岳」については下記に記します。
(扁額)
昭和辛未春日写 於藤白山房 霞岳山民の書き入れあり |
(天袋・意匠)
霞岳山民書の銘書あり |
(春慶塗・絵・讃入り会席膳五客)
「霞岳山民」の銘 |
いづれも「霞岳山民」の号入り |
[堀田 霞岳](ほった かがく・1896(M.29)年~1931(S.6)年 35歳で没)
名前を重藏といい、酔山荘主の別号あり。海草郡内海町(現・海南市)出身。15歳のとき青木梅岳について学び、十数年で技大いに上達したが、さらに上京して
小室翠雲の門に入り数年研鑽、技いよいよ熟達した。その後郷里に帰り、海南藤白山麓
に居を構え、酔山荘と号した。霞岳はまた俳句を嗜み巧みであった。昭和6(1931)年僅か35歳で死亡した。もてる才能からその早世が惜しまれる。
思わぬ「お宝」発見と一連の作品に込められた親父の思い入れの一端を垣間見た一時でした。
由来がわかると思い入れも一層と深まり、愛着もさらに大きいものになりますね。
返信削除残念ながら我が家にはそういう思いを馳せるものは伝わっていません。うらやましいです。
(少ない知識・見識しか持ち合わせていないのであっさりしたコメントでスミマセン。)
onigawaraさま
返信削除古い寺社を訪ねるに当たってその由緒を知っている
のと知らないのでは、大違いでしょう!
その意味で由来や家系等が分かれば、それはそれで
意味があろうかと思います。
カキコありがとうございました.今後ともよろしく!