桜の名所地元紀三井寺の桜の状況を観察してみると、大方の桜は散り果て、桜吹雪となって近くの池に吹き寄せられて雅な「花筏」ではなく、あたかも桜花の絨毯状になってしまっていた。
紀三井寺の桜・4.11現在 |
春を代表する花は、日本では桜そして梅ということになる。ところが俳句歳時記で「花」の項をひくと、花一般をさすのではなく、桜に限定されている。つまり花といえば桜のことである。
それ以前はむしろ梅のほうが優勢だった。「万葉集」で詠まれた花のランキングを調べてみると、
1位は萩で141首、2位が梅の118首、3位は松、4位は藻、5位は橘、6位は菅、7位は薄、そして8位に桜の40首あまりが位置する。
梅のほぼ3分の1ほどしか詠まれていないのである。これが「古今集」になると、桜の53首に対して、梅は29首と逆転する。
その理由としては、まず桜が日本にもともと在来し、東アジアに広く分布していたのに対して、梅は橘などと同じく中国原産で、奈良時代以前に渡来したものだという事情がある。外来のものへの好奇心や憧れは今日の私たち以上に強いものがあったはずで、梅は中国文化を象徴するものとして、当時の貴族たちの憧れの的となったのである。ちょうど明治以降のバラに対する日本人の嗜好には、西洋文化への憧れが濃厚に含まれていたのと同じである。
ところが遣唐使の廃止や平安時代に入り、国風文化が栄えてくると、梅が桜に置き換わる。
本居宣長 |
、
”敷島の 大和ごころを ひと問わば 朝日に匂う 山桜花” 本居宣長
の和歌から「敷島」「大和」「朝日」「桜」が「特攻隊」の名称にされたり、「大和魂」を強制されたりと、本居宣長がさもその張本人の如く誤解されてきた。
評論家小林秀雄の最晩年の「本居宣長」にもあるがごとく、宣長は大和魂を強いては居らない。彼のいう「大和心」は偽らざる日本人の心情そのものなのである。
そして、桜は観賞用というよりも、当初は実用性において認識されていたようだ。福井県の鳥浜遺跡からは、5千年以上も前の縄文前期の弓が多数出土しているが、その中に桜の樹皮を巻いて補強しているものが発見されている。
桜の樹皮を張り皮として茶筒や小箱に使ったり、曲げ物の綴じ目に用いたりする細工は今日にも続いている。木材としても、緻密で加工しやすく家具材や船材に利用され、「中華には梓を以書を刻む。日本には桜を用ゆ。材堅くして良材なり」(大和本草)といわれているように版木としても広く用いられてきた。
桜の樹皮を張り皮として茶筒や小箱に使ったり、曲げ物の綴じ目に用いたりする細工は今日にも続いている。木材としても、緻密で加工しやすく家具材や船材に利用され、「中華には梓を以書を刻む。日本には桜を用ゆ。材堅くして良材なり」(大和本草)といわれているように版木としても広く用いられてきた。
その桜が観賞用の花木として梅の地位を奪った背景には、視覚的な興趣がより重視されるようになった美意識の変化がある。「色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖ふれし窓の梅ぞも」(古今―春上33)と詠われているように、梅は色や形よりも香の面で尊ばれた。それに対して、咲き散る桜の花の動きや色の微妙な変化に一喜一憂するような鑑賞態度が生まれてきたのである。
日本国語大辞典第2版には209もの「桜」を冠した熟語が収録されているが、その多くは桜の色を利用して作られたことばである。そこで、最後に桜を読んだ句を紹介して今年の桜の見納めとしよう
さまざまの事思ひ出す桜かな 芭蕉
きのふけふ高根の桜見えにけり 蕪村
したたかに水をうちたる夕ざくら 久保田万太郎
ちるさくら海あをければ海にちる 高屋窓秋
------------------
”見上ぐればさくらしもうて紀三井寺” 芭蕉
まだ、見たりない方は奈良の吉野山のほうへどうぞ!上千本・中千本・下千本の山桜がこれから順番に上の方に一月掛けて駆け上ります。
(吉野山の桜開花状況)4.11現在
山全体で約3万本といわれる吉野山の「山桜」であるが、現在は
下千本3分咲き・中千本つぼみ・上千本つぼみ の状態である。見頃は20日~下旬頃
吉野山の山桜 |
こんばんは♪
返信削除「花ちらしの雨」の中、雨女三人で館野泉さんのコンサートに行ってきました。雨の中、会場となったホールは川の土手の近くなんですが、土手沿いに桜が植えられていて、思わぬ夜桜見物も出来ました。
館野さんの和歌山再演があるとよいですね。
EYASUKOさん
返信削除検索を掛けてYou Tubuで舘野泉 ・シベリウス「 樹の組曲 」と
カッチー二/アヴェマリアを視聴してみました。
ピアノの音量にャャ乏しく感じましたが、わたしの難聴がやや進んだ
かも知れません。TVの音量の数字が以前より大きくなってるからです。
聴くだけでなくて実演を見てみたいです。