南隣に接する(海南市)黒江地区においても景観保全活動が地区住民らの間で盛り上がり、景観保全は今をおいてはないと町並み保存の意気盛ん。この会の阪井会長さんは、昔の黒江の写真がないかと、眼を皿のようにして探し回っておられるとか・・・古い家が多いだけに、声を掛けて探し回れば何処かでキッと見つかることかと思うんだが・・・
この点、「和歌浦」は聖武天皇の天平時代以来万葉集にも歌われる名勝・聖地だったし、徳川時代紀州藩主に徳川頼宣公が入国、和歌浦に父君家康公を祀る東照宮(西の東照宮)を建立するなど和歌浦を聖地として扱ってきた。
大正時代には和歌浦の奥地を開発し新和歌浦、そしてさらに奥地の雑賀崎等として観光の主力はそちらに移ったが、和歌浦は歴代聖地として守られてきただけに古い記録や絵図・写真等が相当残っている。
和歌浦に新旧を対比する図会・写真入りの案内板はこのブログでも紹介(4.10 いにしえの和歌浦ー 散策にー)したように、官民とも景観保存活動に相当力を入れて来ている。
(画像は全てクリックすれば、拡大して見やすくなります)
そこで、わたしもこのことに興味を抱き、過日案内板を観に廻ってきた。そうした処、平日にも関わらず夫婦連れの和歌浦散策者に相当数出会った。前回はニュース和歌山さまのお許しを得て『和歌浦の風景』ーカラーで読む『紀伊国名所図会』ーから、「和歌浦」を紹介し、また地元に遺る「万葉集」歌の紹介などしてきたので、一部重複する部分があろうと思うが、できるだけ重複を避けて話を進めたいと思い、今回は主だった案内板と句碑・歌碑の類いを掲げ、個別的な史跡を紹介することにいたしたい。
名勝和歌の浦 案内板 |
就いては国名勝「和歌浦」の今日まで来たりし歴史を追い、その歴史的史跡を如何に守り景観保全を行おうかということである。
従って長くなるが万葉集に詠われ聖武天皇以下の行幸のいにしえの地「和歌浦」の歴史から始めなくてはならない。ただ、お断りしておくがここに採り上げる「和歌浦」は下にもある通り国の名勝指定を受けた狭義の「和歌浦」である。
和歌浦界隈(航空写真) |
片男波海岸から和歌浦を臨む |
はじめに「和歌浦」の定義と歴史について
和歌浦(わかのうら)は和歌山市の南西部に位置する景勝地の総称。住所表記での「和歌浦」は「わかうら」と読むために、地元住民は一帯を指して「わかうら」と呼ぶことが多い。
狭義では玉津島と片男波を結ぶ砂嘴と周辺一帯を指すのに対し、
広義ではそれらに加え、新和歌浦、雑賀山を隔てた漁業集落の田野、雑賀崎一帯を指す。名称は和歌の浦とも表記する。
古くより景勝の地と知られ、『万葉集』にも詠まれた名所である。東部は著しく地形が変わったため往事の面影はさほど見られないが、西部の雑賀崎周辺は現在も瀬戸内海国立公園の特別地域に指定され、また国の名勝にも指定されて保護されている。
和歌浦はその前身である海草郡和歌浦町(わかうらちょう)、同町の町制前の名称である海部郡・海草郡和歌村(わかむら)と称した。
和歌浦は元々、「若の浦」と呼ばれていた。聖武天皇が即位された神亀元(724)年行幸の折に、お供をしていた山部赤人が『万葉集』歌に
神亀元(724)年甲子(きのえね)の冬の十月五日に、紀伊(き)の国に幸(いでま)す時に、山部宿禰赤人の作る歌一首 并せて短歌(万葉集巻六)
やすみしし 我ご大君の 常宮(とこみや)と 仕へまつれる 雑賀野(さひかの)ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮(しほ)干(ひ)れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴(たふと)き 玉津島山(たまつしまやま) (6-917)
反歌二首
沖つ島荒磯(ありそ)の玉藻潮(しほ)干(ひ)満(み)ちい隠りゆかば思ほえむかも(6-918)
若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ) 鳴き渡る(6-919)
【通釈】[長歌] 我が大君のとこしえの宮としてお仕え申し上げる雑賀野から背後に見える沖の島――その島の清らかな渚に、風が吹けば白波がざわざわと音を立て、潮が引けば美しい藻を刈ることを繰り返して――神代からそんなにも尊いことよ、玉津島山は。
[反歌一] 沖の島の岩に生えている美しい藻は、潮が満ちて隠れてしまったら、その姿が思いやられることだろう。
[反歌二] 和歌の浦に潮が満ちて来ると、干潟が無くなるので、葦の生える岸辺を目指して鶴が鳴き渡ってゆく。
【語釈】[長歌]◇雑賀野 和歌山市の和歌浦の西北。◇玉津島山 雑賀野東方の山々、玉津島神社を祀る。かつては海中の島であったと言う。
[反歌]◇若の浦 原文は「若浦」。和歌山市の旧和歌浦。
と詠んでいる。「片男波」という地名は、この「潟をなみ」という句から生まれたとされる。
また、『続日本紀』によれば、一帯は「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていたが、聖武天皇が陽が射した景観の美しさから「明光浦」(あかのうら)と改めたとも記載されている。和歌浦には明光商店街があるが、これは続日本紀の明光浦の呼称にちなんで付けられた。
「和歌浦」を代表する玉津島であるが、聖武天皇が行幸当時は紀ノ川が河口を和歌浦湾にむけて流れていて、今は隆起して陸地化して地続きになって仕舞っているが、いにしえは六つの小島が連なる島嶼群であり、それを称して玉津島の呼んだ。すなわち、妹背山・鏡山・奠供山(てんぐやま)・雲蓋やま・妙見山・船頭山である。いわゆる松島の風景だった。いまは地続きのなって仕舞っているがよく観察してみるとこんもりした小山が連なっているのが分かる。そして海ももっと内陸まで入り込んでいた様だ。和歌浦に昔の名残で「鶴立島」という字名がのこるが、玉津島神社より約1km奥である
平安時代中期、
高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなった。中でも玉津島は歌枕の地として知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになっている。また、若の浦から和歌浦に改められたのもこの頃であり、由来には歌枕に関わる和歌を捩ったともいわれる。
玉津島神社拝殿 |
当時、和歌浦で最も著名な景勝は玉津島である。当時の玉津島は海上に浮かぶ小島であった。
そして、潮の干満で陸と続いたり離れたりする景観を呈していたという。その神聖さから丹生都比売神社より稚日女尊、息長足姫尊(神功皇后)らを勧請し、玉津島神社が設けられた。
また、玉津島の西側に発達した砂嘴は、片男波も今よりずっと内側に入り込んでいたものと推測されており、赤人の句のとおり、葦などの水生植物が生い茂る湿地帯であった。
この和歌浦は都に近いことも相俟って多くの文人、貴族らに愛されてきたが、とりわけ聖武天皇はこの和歌浦を気に入り、何度も行幸している。また、この風致を維持するために、守戸と呼ばれる監視役を配置させた。
天満宮 |
また、平安の頃には康保年間に、神霊の勧請を受けて天満宮が建設された。これは菅原道真左遷の際に、風避けの際に和歌浦に立ち寄ったことが縁となっている。
江戸時代
江戸幕府が開府されると、和歌山は御三家である紀州徳川家の城下町として賑わうこととなった。その際に建てられたのが紀州東照宮である。初代紀州藩主主の徳川頼宣は祭神に実父である東照大権現(徳川家康)を勧請し、正式に東照宮から遷宮を行ったものである。その例祭、和歌祭は今日に至るまで和歌浦を代表する祭礼として脈々と伝わっている。紀州・東照宮 |
不老橋 |
また、和歌浦のシンボルにもなっている不老橋は、第13代藩主徳川慶福の治世に第10代藩主徳川治寶の命によって、東照宮御旅所の移築に際して建造された石造の橋梁であり、肥後出身の石工が建造に関わっている。また、このころ建てられたものとして、望海用の櫓として親しまれる観海閣(第二室戸台風で流出、現在はコンクリート製の復元)などがある。
近代以降(最盛期)
以後は和歌浦は玉津島神社、東照宮、天満宮の遷座する聖地として庶民に親しまれていた。
また、1901(明治34)年2月14~15日、日本に亡命中だった孫文と南方熊楠は和歌浦の料理旅館「あしべ屋」で再会した事実がのこされている。1909年には和歌山水力電気の路面電車(のちの南海電鉄和歌山軌道線)が和歌浦まで開通し、観光客増加に一役買っている。
1910年にはエレベーターが開設され、翌年には夏目漱石が乗っている。その様子は小説『行人』に描かれている。
そして1950年に、毎日新聞による「新日本観光地百選」の海岸の部にて1位を獲得すると、その美しさが全国的に知られるようになり、加えて縁結び信仰が強かった玉津島神社の存在意義も相俟って、全国随一の新婚旅行スポットとなり、観光客は一段と増加した。さらにその後は瀬戸内海国立公園への編入も決定したことで、年間宿泊者350万人を数える一大観光地に成長した。
この頃に新和歌浦や雑賀崎も開発され、一帯のホテル、旅館数は40以上を数え、連日のように賑わいを見せていた。高津子山(たかづしやま)にはソメイヨシノが植樹され、春先になる絢爛と花を咲かせることから、「西の嵐山」などと称された。ほかに、新和歌浦ロープウェイ(和歌の浦温泉 萬波前の高津子山に存在した)の敷設や和歌浦遊覧船の周航開始など、次々に観光開発が進行し、うらぶれた漁村であった一帯は大きな変化を遂げることになった。
1970年代から1990年代にかけて(衰退期)
しかし、過剰気味になった観光開発は、後の和歌浦に大きな陰を落とすことになる。1965年ごろになると、新婚旅行の人気スポットは、宮崎など九州地方に西漸して、その影響を受けた和歌浦は宿泊客の減少が著しくなり、宿泊施設数はピークの半分に減少した。さらに、1971年には交通の足であった南海電鉄和歌山軌道線が廃止された。そこで新たに、従来の長期宿泊客向けの景勝地より、レジャーを中心とした近隣型の観光地への整備を始め、天然の砂嘴であった片男波は人工海岸に変えられるなどして、地形的に大きな変貌を遂げた。これにより、阪神地方などから海水浴客を確保することには成功したが、従来の景勝地としての情趣が奪われ、陳腐化が進み、魅力に欠けるものとなってしまった。さらに、国内温泉ブームが衰退に拍車をかけた。和歌山県での宿泊客は温泉情緒を求めて白浜や勝浦などに出向いてしまい、それにより温泉資源のない和歌浦は一般客にも団体客にも敬遠され、大幅に宿泊客が減少した。
そこに追い打ちをかけるように、1971年には旅館火災で16人もの死者を出してしまう事故(寿司由楼火災)が発生、著名な大型ホテルや著名旅館が経営に行き詰まって倒産するなど、暗い話題ばかりが和歌浦を包み込んでしまった。
雑賀崎より望む。写真中央(山際)の更地が、かつて和歌浦の中心に位置した廃業旅館跡地。左手に高層マンションが建つなど復興の兆しが見えるが、右手の旅館が2009年現在休業中である。 |
また、片男波や浜の宮の海水浴場も整備資金を捻出できなかったため、老朽化した施設が敬遠され、海水浴客が減少していた。それでも一部のホテルや旅館が廃業を免れたのは、地元住民にも気軽に利用してもらえるよう、会議やコンベンション用、あるいは部活動の合宿などにおける利用を呼びかけ、少しでも宿泊客を確保しようとした地道な営業活動の成果ともいえる。
近年
近年における最大の転機が、人工島「和歌山マリーナシティー」の建設と、テーマパーク「ポルトヨーロッパ」の開業である。特に1994年には地方博「世界リゾート博」で多くの観光客が和歌山に訪れ、苦境に立たされていた和歌浦の宿泊施設は連日、稼働率が100%を超え、大きく息を吹き返した。 また、このポルトヨーロッパは歴史遺産以外の有力な観光資源に恵まれなかった和歌浦の宿泊施設にとって大きな助けとなった。和歌山マリーナシティー・遠景は和歌浦方面 |
これにより、和歌山市は観光に重点を置くようになる。
市内全体に観光案内板を再整備し、和歌山城や紀三井寺、日前宮、紀伊風土記の丘など主要な観光地に駐車場を再整備するなど、環境を改善していった。その際、片男波海水浴場は、このリゾート博開催に合わせて、老朽化した設備を廃止して水洗トイレやシャワー室を整備した現代的な海水浴場に生まれ変わっており、後の快水浴場選定の契機を生んだ。もっとも、その後は手探りの状態でもあり、長年観光で貢献してきた和歌遊園の閉鎖、新和歌浦ロープウェイの廃止(1997年、予算打ち切りにより廃止)、回転展望台の撤去(1999年)が起こっている。
1999年の南紀熊野体験博に伴う熊野古道ブームは、全国に数多存在する日本固有の文化、伝統に対する回帰現象を生んだとされ、年配者を中心に古寺、古社や遺跡の探訪がブームになった。 そこで和歌浦も固有の資産である万葉の歌枕の地であるという伝統的な歴史価値を生かすべく、万葉の地ということを大々的にPRし、萬葉館などの文化施設を建設し、遊歩道を整備するなどした。
その一方で、阪神都市圏に近いという地の利を生かし、レジャー、レクリエーション拠点としての開発を進め、さまざまなイベントを催している。その中で和歌浦Jazzマラソン(現和歌浦ベイマラソwith jazz)は全国的に知られるビッグイベントとなり、閑散期の和歌浦を賑わせるものとして大きく貢献している。近郊型のリゾートマンション建設が進んだのもこの頃である。
市や地域は観光地として盛り返すため、日頃から清掃、整備、開発に取り組んだ。その結果、2006年には、環境省が定める快水浴場百選に、片男波海水浴場が特選として選定され、また波早ビーチも選定されている。事実、和歌浦はリゾート博開催以後、日帰り客の増加は目覚ましく、阪神大都市圏に近いながら、良好な自然環境が残されていることから、特にゴールデンウイークや夏休みの期間には、芋を洗うような賑わいが見られるようになった。
一方、宿泊施設にとっては、依然厳しい状況が持続しているのも事実であり、今後は宿泊施設側のハード面、ソフト面双方の整備、日帰り客を引き留めるような観光地の開発、また固有の文化資産、自然景観をどう生かすかなど、問題も山積している。
和歌浦の今後
和歌浦はこのように、昭和中期に隆盛を誇った反動で、多くの廃業ホテル、旅館を生み、状況は依然として厳しいが、12件の老舗旅館と共にその風光明媚な景観を活かした癒しのまちづくりが進められている。
廃墟跡地には特別養護老人ホームの建設があり、唯一の温泉施設である和歌の浦温泉「萬波」の経営存続(南海電気鉄道の経営から地元旅館経営者に経営譲渡された)や、地元釣具店「やぶしん」による観光遊覧船の復活、和歌祭りの開催など若者を中心とした活躍も目立ち始めるなど、復興の兆しが見えてきている。
和歌山県教育委員会は2008年6月24日付けで、和歌浦を県指定文化財(名勝及び史跡)に指定した。指定対象は玉津島神社・天満宮・東照宮の境内、妹背山と三断橋、不老橋など、約10.2ヘクタールである。こうして和歌浦の歴史的風致景観が保全されることとなった。2010年には国の名勝に指定された。さらに県や市は名勝指定区域の拡大を目指して種々な活動を展開中である。
和歌の浦を中心に活動するグループ、和歌祭保存会、妹背山護持顕彰会、和歌の浦フォーラム、トンガの鼻自然クラブ、和歌山観光医療産業創造ネットワーク、とうげん塾、「和歌の浦萬葉薪能会」や和歌浦連合自治会、田の浦連合自治会、雑賀崎連合自治会など地元自治会、また、和歌の浦観光協会・同旅館業組合などによって、「和歌の浦みちしるべの会」が結成され活発な活動を行っている。各種団体は、和歌の浦の景観保全を中心課題に据え、活性化の道を模索しつつある。
和歌浦と廃墟
上記の廃業ホテル、旅館は手付かずのまま放置されていた。それ故、2002年頃に廃墟ブームが勃発すると、巨大な廃墟物件を抱えていた和歌浦は「廃墟の聖地」と揶揄されるまでになっていた。「宇宙回転温泉」と称する回転型の浴用施設(温泉と名乗っているが温泉ではない)を設けていた廃業旅館や、火災で大量の死者を出し、ボウリング場を併設して再起を図るも心霊現象が起こるなどの風評もあり、汚名を返上できず廃業したホテルなどは、その巨大さと豪華さと荒れ具合ゆえに当時多くの話題を生んでいる。特に高度成長期に安直な建て増しを行い、迷路のような構造となっていた廃業旅館は、サバイバルゲーム愛好者や廃墟マニアにとって屈指の人気スポットであった。しかし、それにより不法侵入が絶えず、また心ない破壊活動、放火未遂などにより、環境面だけでなく治安面でも、周辺住民や一般宿泊者、関係者から苦情が絶えなかった。それに加え、廃業旅館は安直な建て増しによる耐震性の不備が指摘され、その巨大さもあって何回大地震が起これば崩落して周辺に多大な被害をもたらすことが予想された。そのため、2005年10月にこれらを含めた廃墟物件は軒並み撤去されることになり、一連の騒動は終止符を打った。
和歌山県は近年、景観法の規定のもと、『和歌山県景観条例』を平成20年3月24日に制定しました。 条例には、良好な景観形成のために、県や県民等が守るべき責務、景観形成の基本となる景観計画の策定および運用のための必要事項、届出対象となる行為、景観審議会の設置や運営などについて規定しています。
また、条例施行規則には、条例の施行に関し必要な事項を定めています。
~NEW~
住民参画の景観づくりの推進
和歌山県景観条例を改正し、県民の声を景観施策に反映させ和歌山の個性豊かな景観づくりを実現するための制度を追加しました。
次回からは個別な名所の紹介に入ります。
いやぁよくぞこれほども詳しく調べられましたのぉ!
返信削除和歌浦はそれがしも子供の頃から親しみし良き処、昔のように賑やかになって欲しゅうござりまする。
最近では新しい店も随分と増えて参り、和歌シラス祭なども催され脚光を浴びておりまするのぉwww
個別の記事を楽しみに致しておりまする!
どういうわけか此度も名前が書けませなんだ^^;
モノノフ
モノノフ殿
返信削除自分の自由時間には事欠かない故とボケ防止に脳と指先を使うことで
衰えを先延ばしできればと考えてのことと、性格的に凝り性が相俟って
検索を掛けたりして参考書には事欠きません。
自分史とは参りませんが、ある程度書きためればCDに焼いて自己出版の
気持ちになってますし、生来の歴史好きも手伝っています。