和歌祭・神官 |
(この記事はニュース和歌山・09.12.12,11.5.21,11.5.28「和歌浦の風景3編から転載させていただきました)
上の絵は、紀州東照宮の例祭、和歌祭渡御行列の約200年前の風景です。和歌祭は、初代紀州藩主徳川頼宣が亡き父家康の霊を慰めるため、元和8年(1622)旧暦4月17日に始めたお祭りです。その行列は東照宮を出発し片男波の砂州にあった御旅所までいき、田楽などの神事を奉納してかえってきました。
江戸時代の行列は和歌浦の入江を廻りましたが、『紀伊国名所図会』では画面構成から、つづら折れで6枚にわたってえがいています。
上の絵の(二)には先の渡り物(神事に関わる渡御行列)の御旗鉾(ほこ)・獅子・神子のあとに、練り物(城下の町人が参加した出し物)の「長刀振」「赤母衣(あかほろ)」、
(五)には「団扇(うちわ)太鼓」「餅花」「臼引」「手合」「餅つき」「つづみ」「笛」「たいこ」「笠鉾」の練り物が続きます。
(八)には後の渡り物の騎馬神主、太鼓・かね、東照大権現・山王権現・摩陀羅神の3基の御輿がみえます。
上の絵の(二)には先の渡り物(神事に関わる渡御行列)の御旗鉾(ほこ)・獅子・神子のあとに、練り物(城下の町人が参加した出し物)の「長刀振」「赤母衣(あかほろ)」、
(五)には「団扇(うちわ)太鼓」「餅花」「臼引」「手合」「餅つき」「つづみ」「笛」「たいこ」「笠鉾」の練り物が続きます。
(八)には後の渡り物の騎馬神主、太鼓・かね、東照大権現・山王権現・摩陀羅神の3基の御輿がみえます。
和歌祭は約400年の歴史がある和歌山を代表する祭で、たくさんの屏風や絵巻物にえがかれています。時代とともに行列の規模や順序は変化していますが、名所和歌浦で和歌祭保存会等の長年にわたる熱意と努力で復活したこの時代絵巻の実物を来年も見に行きたいと思います。
( 和歌山市教育委員会 額田雅裕)
( 和歌山市教育委員会 額田雅裕)
上の絵は、紀州東照宮の例祭、和歌祭渡御行列の約200年前の風景です。和歌祭は、初代紀州藩主徳川頼宣が父徳川家康の霊を慰めるために始めたものです。
絵図の先頭集団「根来衆」に続いて、(一)には先の渡り物(神事に関わる渡御行列)の御経箱・御榊・御旗鉾(はたぼこ)、
(六)には練り物(城下の町人が参加した出し物)の「猿十二疋(ひき)」「面掛(めんかけ)」「鎧着」・町湊大年寄、
(七)には後の渡り物の神馬(しんめ)、音楽役人のひちりき・笙(しょう)・太鼓・鉦鼓(しょうこ)、小童子、中童子、大童子、御幣、御太刀が続きます。
根来衆がいつから和歌祭に参加したのかわかっていませんが、忍者が祭という晴れ舞台に登場し、絵図に画かれているのはおもしろいことです。 江戸前期の和歌祭の絵図で根来衆は黒の羽織に着流し姿ですが、寛政8年(1796)の触書で根来衆に麻の裃(かみしも)の着用が許され、ここではその装いで画かれています(和歌山市教育委員会文化振興課 額田雅裕 )
上の絵は、紀州東照宮の例祭、和歌祭渡御(とぎょ)行列の約200年前の風景です。祭りの行列には様々な出し物がありました。
絵図下段の(三)※注には練り物の「白母衣(ほろ)」「連尺」「棒振」「太鼓」「拍子鉦」「笛」「ほらかい」、(四)※注には「請棒」「雑か踊」「唐船」「笠鉾(かさぼこ)」「烏帽子(えぼし)着」、
(九)※注には後の渡り物の導師、僧衆騎馬、3つ道具が続いています。
雑賀踊は、竹の先を細かく割いて束ねた簓(ささら)と表面に鋸歯(きょし)状の刻み目を施した簓子を摺り合せて踊ることから、「ささら踊」とも呼ばれました。それには風流踊に由来する説と、天正5年(1577)の織田信長と紀州雑賀との戦いで、足を負傷した鈴木孫市が戦勝を祝って雑賀衆の守護神である「矢の宮」神社にて舞った片足踊に由来する説があります。
行列は時代とともに変化し、同じ出し物でも時代によって服装に変化がみられます。雑賀踊は、江戸前期には城下の湊から出された三鍬形つきの烏帽子を被ったものと、広瀬から出された鹿角を付けた投頭巾を被ったものが2カ所に登場しました。しかし、江戸後期の(四)※注では置手拭形(おきてぬぐいなり)の兜を被ったもの1つだけで、武者行列の色彩が濃くなっています(和歌山市教育委員会文化振興課・ 額田雅裕) (以上ニュース和歌山新聞より)
◇ ◇
◎ 「和歌祭ガイド」 和歌祭保存会和歌祭は毎年、5月第2週日曜日に行われる紀州東照宮の大祭の渡御の呼称です。別名、紀州の国祭、天下祭、権現祭とも呼ばれ、親しまれてきたお祭りの行列です。和歌祭と呼ばれているのは、東照宮のある山を和歌山(わかさん)といい、一山を上げてのお祭ということで和歌祭と呼ばれたとか、江戸時代に東照宮を口にするのは恐れ多いということで「和歌の御宮」と言い習わされていたところから和歌祭と呼ばれるようになったなどの説があります。
和歌祭の始まりは、江戸時代の元和8年(1622)からです。戦国と呼ばれた時代から遠くないせいか、現在でも行列の中にその頃の様子が伺える種目もあって、他のお祭のお渡り行列との違いを見ることができます。
紀州の人々により、全国に類を見ない祭として、誇りをもって受け継がれてきました。この伝統的なお祭を絶やさず、将来に伝承していこうと守っている和歌山の人々の文化意識の高さを示すお祭でもあるのです。
お祭の構成は当初、紀州徳川家が中心に、行列の各芸技種目のすべては「株」組織で構成されていて、それぞれの芸技おのおのが独立した型になっています。その「株」が連合して祭の行列となり、そこに無礼講として土地の人々の得意とする芸技集団が行列の後に続いていました。各「株」は家臣団の個々が、名誉をかけて、その技術を代々、口伝によって継承されてきました。
しかし、和歌山県の最大の年中行事のひとつとして欠かすことのできない神事として、心ある方々や地元経済を支える方々の後援によって、当初の姿に戻そうとする大きな力となっていることは見逃せません。
親が、そして先祖が残してくれた、この伝統行事の和歌祭を受け継ぐ要因は、紀州の次代を担う若い力に大いに期待がかけられています。
◎「和歌祭保存会発足の背景」について
市の南部海岸線に位置する「和歌の浦」は万葉の時代から有名な景勝地であり、昭和30年代の高度成長期には一時的な繁栄を手にいれることもできましたが近年の過疎化、衰退傾向は目を覆うばかりです。現在のこの状況に至った原因の一つが「文化との共生」をおざなりにした為だと考えることもできます。経済的なまちおこしが全国各地でクローズアップされていますが当地「和歌の浦」では伝統文化を中心とした取り組みが地元の活性化に繋げようとする取り組みをはじめております。江戸時代より和歌の浦は「関西の日光」として、紀州徳川家の加護のもと文化が華咲いた地域であります。その象徴的な存在が「和歌祭」であり、別名、紀州の国祭、権現祭とも呼ばれ江戸時代には日本3大祭に数えられたほどの大祭です。その始まりが戦国時代とさほど遠くなかったせいか、行列の中にその頃の様子が伺える種類もあって他のお祭との顕著な相違点を見ることができます。
紀州の人々により、全国的に類を見ない祭として誇りをもって受け継がれてきたこの「和歌祭」を様々な貴重な伝統芸技とともに将来の子々孫々へ受け渡そうと昭和60年に発足したのが「和歌祭保存会」であります。そして各方面の方々のご尽力により平成2年には和歌浦の地で盛大に復活させることができたのです。以降、「本祭」には1300余名、「大習(おおならし)」には800余名もの構成で渡御行列ができるようになっております。
●和歌祭保存会(事務局:東照宮)
〒641-0024 和歌山市和歌浦西2丁目1-20 TEL:073-444-0808◇ ◇
「和歌祭」東照宮境内を埋め尽くす人々 |
東照宮御輿 |
同上拡大写真 |
108段の石段を駆け下る御輿 |
仮装行列 |
和歌祭 |
雑賀踊り |
和歌山県立博物館「和歌祭」コラム」
◎ 「和歌祭」について、4つのトピックスから眺めていきます。
1. 近代の和歌祭
2. 雑賀踊と和歌祭
3. 東照宮祭礼と猿引
4. 和歌祭の舞楽装束
http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/waka/colum.htm
(つづく)
しげやんさん こんにちは。
返信削除アートフリマでバタバタしている間に、たくさんアップなさったんですね!
福島もそうですが、和歌山も広いのに全部が台風の被害にあってるように思いがちです。
大丈夫なところには、どんどん観光客が来て欲しいですね。
昨日渋谷の神社でも左甚五郎作の獅子頭がありました。
いろんなところに出没してますね。
明日から、大連・旅順へ旅に出ます。3泊4日ですが。
またしばらくうかがえませんが、お元気で♪
megさん
返信削除紀南・熊野地方は大変でした。ボランティア活動が紀北では
あまり盛り上がっていないようで一寸寂しいです。
大連・旅順というと日露戦争を想い出します。今年の12月に
司馬遼太郎「坂の上の雲」第3部がNHKでありますが、前も
ってその史跡をご覧になる旅ですね!
ご安全に行ってらっしゃい!