では「名所図会」から「矢の宮」を紹介します。「矢の宮」は和歌道の秋葉山の南麓にある五百羅漢禅寺の和歌道を横切った西側に位置し、雑賀衆の本拠地で雑賀衆の守護神であり、雑賀衆は全国にその名を知られ大坂「石山本願寺(浄土真宗)」に味方し織田信長と10年にわたる戦を繰り広げ、石山本願寺を倒すには、まずその戦力の中心である鉄砲集団・雑賀衆を討伐すべしと織田信長は15万の兵を紀州に送り込み対峙したがのち和睦、その背景には毛利方や上杉方に信長軍の背後を襲われる危険を避けるためとも云われている。ときは天正5(1577)年2月のことであった。(以下の記事はニュース和歌山・11.6.11「和歌浦の風景」」」より)
「矢の宮」神社 |
熊野本宮大社の「八咫烏」 |
JFAのシンボルマーク「八咫烏」 |
天正10年本能寺の変で信長が横死すると、信長に代わって天下人を目指した羽柴秀吉が天正13年(1585)十数万の兵を動員し、紀州攻めを行った。
この紀州征伐により「根来寺」には火を掛けられ、堂塔の殆どが灰塵に帰し、多くの僧兵は討ち死にし、雑賀衆が立てこもる「太田城」は水攻めにあい秀吉軍に下り、これを最後に雑賀衆は壊滅したが、いまでも和歌山市内には「雑賀」の名が付く地名が随所にのこっている。その雑賀衆のことにも触れておきたい。
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雑賀衆(さいかしゅう)(ウイキペディア)
は、「さいが」とも読み、また、史料に見られる「惣国」と同じと考えられているため、「紀州惣国」もしくは「雑賀惣国」とも呼ばれている。
雑賀衆は紀伊国北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」という五つの地域(五組・五搦などという)から成り立っている。
すなわち、雑賀衆とは、この五つの地域が地縁により結びついている一揆集団である。
16世紀当時としては非常に多い数千丁単位の数の鉄砲で武装しており、きわめて高い軍事力を持って傭兵集団としても活躍した。
また海運(海賊?)や貿易も営んでいたため、正確には武装商人集団と見た方が正しいのかも知れない。
雑賀衆を構成した主な一族としては、雑賀荘の土橋氏、十ヶ郷(現和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸)の鈴木氏などが知られている。
雑賀衆は15世紀頃に歴史に現れ、応仁の乱の後、紀伊国と河内国の守護大名である畠山氏の要請に応じ近畿地方の各地を転戦、次第に傭兵的な集団として成長していった。紀ノ川河口付近を抑えることから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようである。種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、根来衆に続いて雑賀衆もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長する。「雑賀衆」という言葉の史料上の初出は、本願寺蓮如の子である実如の「私心記」1535年6月17日条であり、「雑賀衆三百人計」が大坂本山に来援した、とある。
そしてこの翌年2月には本願寺証如からこの時の活躍について感謝状(「本願寺文書」)が出されている。
その後大規模な銃撃戦、攻城戦が繰り広げられたが『戦国鉄砲 傭兵隊』によると、雑賀衆同士が戦った可能性を示唆している。
しかし石山本願寺が野田城・福島城の戦いに参戦すると、雑賀衆は一致して石山本願寺につき織田信長軍と戦った。
しばしば鉄砲を有効に活用したとされる織田軍も、雑賀衆の鉄砲の技術と量には苦戦し、一度は信長自身も負傷する大敗を喫したことがあった(石山合戦))。
信長は本願寺を倒すためにまず雑賀衆を抑えることを考え、1577年(天正5年)に信長自身率いる大軍をもって和泉国・河内国から紀伊に侵攻(第一次紀州征伐)し、雑賀衆に服属を誓わせた。しかし、この戦いで織田軍は大きな損害を出し、服属させたはずの雑賀衆もすぐに自由な活動を再開して本願寺に荷担した。
1580年(天正8年)に門主顕如が石山本願寺から退去して石山戦争が終結すると、雑賀衆の門徒たちは雑賀の鷺森(現在の和歌山市・鷺森別院)に顕如を迎え入れた。畠山政尚を奉じて信長と争う姿勢を示した。
しかし、これ以降、織田信長に進んで従おうとする派と反織田を貫こうとする派が対立し、雑賀衆の内部は分裂することとなった。
1582年(天正10年)には親織田派の鈴木孫一が反対派の土橋氏を倒すが、同年の本能寺の変によって信長が横死すると孫一は羽柴秀吉のもとに逃亡し、土橋派が主導権を握った。
以後は、もっぱら中央集権化を進めて土豪の在地支配を解体しようとする秀吉政権の動きに雑賀衆は一貫して反発し続け、徳川家康の要請に応えて根来衆と組んで小牧・長久手の戦いでは大坂周辺にまで出兵して尾張に出陣した秀吉の背後を脅かした。1585年(天正13年)、家康と和解した秀吉が紀伊に攻め入ってくる千石堀の戦い(第二次紀州征伐)と焼き討ちされた根来寺に続いて雑賀に対して攻撃が加えられ、雑賀衆は抵抗したがかなわずに壊滅した。(太田城の水攻め)
かつての雑賀衆は滅びた土豪勢力として帰農したり、各地に散らばって鉄砲の技術をもって大名に仕え、雑賀衆は歴史から消滅した。
(参考)
雑賀衆の頭領・雑賀(鈴木)孫市は、自由奔放な性格で人気がたかく多くの作家が小説化している。
なかでも、司馬遼太郎「尻啖え孫市」、津本 陽「雑賀六字の城」、地元作家神坂次郎「海の伽耶琴(カヤグム)ー雑賀鉄砲衆が行く」がよく読まれている。
(つづく)
しげやんさん
返信削除雨は大丈夫ですか。
多治見は
昨日は何度も
冠水の報道がされましたが
水曜日の今日は
雨量が一定以上にならなければ
小康状態です。
くれぐれも注意なさってください。
ばっちゃんさん
返信削除台風15号も正午現在近畿地方を離れたと昼のNHKの報道が
ありました。現在は雨が上がり、西の空が明るくなりつつ
あります。風は台風に向かって吹き込む10m位で一安心
です。台風の中心がが潮岬の東と西では大違いです。
東に向いてくれれば一安心ですが、東海地方が困りですね!
よかったです。
返信削除こちらも
午後にはだいぶ落ち着きました。
現在9時前(夜)
すっかり静か。
虫の声が聞こえてます。
ばっちゃんさん
返信削除お互いに何事もなくてよかったです。それにしても浜松から
東日本縦断とは?ことに東北地方はこれでもか、これでもか式でまことにお気の毒です。台風のこんな凄まじいエネルギーを取り込むことができないものでしょうか?
ばっちゃんの云われた9.11,3.11の次は9.21と
10日ずれましたが1と付く日は、厄日ですね!
しげやん殿、モノノフでござる^^
返信削除鈴木孫市殿は当家の親戚筋に当たりまするw
鈴木家と当家は兄弟の間柄で、その昔は源氏の旗印のもと
三郎と六郎の兄弟が義経に従いて討ち死に致し申した。
当家の家紋は稲穂紋、熊野別当の穂積氏が始祖でござるw
八咫の烏は熊野の紋章、孫市は旗印としており申した。
されど武者の胴には当家と同じ稲穂の紋を描いており申した!
モノノフ殿
返信削除熊野三姓に宇井・鈴木・榎本が御座るが、そのうちの鈴木家で御座るか?それはそれは古き家系で御座るのう。さすれば
藤白神社に近き鈴木屋敷の家系に連なる家柄で御座るのかのう。
わが姓は大和の古代豪族和邇(わに)氏の祖神を春日の地から紀州大野郷に勧請したとき供奉してきた大野十番頭の尾崎家にて信長の雑賀攻めのときに信長方に味方し井松原合戦時討ち死にして御座る。
そのときには大野十番頭も信長方:雑賀方に仲間割れしたが、いまは春日神社の「大野十番頭まつり」で敵味方の分け隔てなく仲良く付き合いして御座るによってご安心召されい。