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2011年9月18日日曜日

「和歌浦の風景」その3.秋葉山界隈

高松を南下した「和歌道」の「秋葉山界隈」の当時の風景をお目に掛けよう
(以下ニュース和歌山「和歌浦の風景」・09.10.17&11.14 号より

上の絵は、秋葉山の北側に続く愛宕山(標高61メートル)・打越山(45メートル)付近の約200年前の風景です。愛宕山の頂上には愛宕権現社が、南麓には別当寺(附属寺院)円珠院がみえます。
愛宕権現は火伏せの神様で、東照宮の鬼門(北東)を護る神として元和8年(1622)に勧請されました。社殿は、当初から幕末まで山頂にありましたが、その後、現在の円珠院境内に移されています。

和歌道(現国道42号)の両側は松並木で、武士や和歌浦でとれた新鮮な魚を城下に運ぶふり売り商人らの姿がみえます。
右下の岩山は、大きくあいた口が猊(げい=獅子)のほえる形に似ていることから、猊口石(げいこうせき)と名付けられました。

入口には紀州藩の儒学者李梅渓(りばいけい)の筆による「猊口石」の刻銘があります。この岩は小さな岩陰(いわかげ)遺跡(秋葉山貝塚)で、貝殻がわずかに散布していました。また猊口石は、一番奥深いところが旧海水準(過去の海面の高さ)を示すノッチ(海食窪)という海岸地形にあたり、かつて波打ち際にあったことがわかります。   (和歌山市教育委員会 額田雅裕)  (以下ニュース和歌山より)
現在の猊口石の写真

猊口石の説明案内(市指定文化財)
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上の絵は、和歌道に沿った秋葉山(標高73メートル)、五百羅漢寺付近の約200年前の風景です。秋葉山には戦国時代に弥勒寺(現本願寺鷺森別院)があって、弥勒寺山あるいは御坊山と呼ばれていました。その後、同寺は永禄6年(1563)に現在地、鷺森(さぎのもり)に移り伽藍を構えました。
弥勒寺の跡には、和歌山城下でたびたび火災が発生したため、寛政5年(1783)に秋葉権現社が創建されました。その後、同社は山腹に移され、現在、山頂付近は公園になっています。
山麓の五百羅漢寺は、永平寺(福井県)末の曹洞宗寺院で、宝暦14年(1764)に今福と関戸の村境から現在地へ移転してきました。
絵図右端の同寺門前には「鶴立島」と記された岩山がえがかれています。それは湿地に浮かぶ小島のようにみえます。
神亀元年(724)に山部赤人が「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」と詠んだ際の葦辺は、当時、海が秋葉山麓まで奥深く湾入し干潟となっていた、この鶴立島付近と推定されます。その名は今も小字に残っています。    ( 和歌山市教育委員会 額田雅裕)
(つづく)

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