(この記事はニュース和歌山・11.5.14「和歌浦の風景」&08.1.5「徳川遺産」水軒堤防より)
古代の吹上浜は磯ノ浦から雑賀山にかけての海岸全体を指しており、貴族らは吹上浜と和歌浦をセットで訪れました。当時の海岸線は今の吹上・砂山の砂丘西側にありましたが、江戸期には沖に新しいビーチ、水軒浜が形成されていました。その名は、この地を開発した紀州藩士、朝比奈段右衛門の号「水軒」に由来します。
彼は初代藩主徳川頼宣に仕え、寛永年間(1624-44)に防潮堤、水軒堤防を造り、防風林として肥後松を植えました。堤防は高さ約5メートル、延長1・6キロ余あります。水軒浜は白砂青松の海岸として知られ、海水浴客で賑わっていましたが、昭和38年(1963)から埋め立てが始まり、風景は一変しました。
絵図の右手前には御膳松の常夜燈、その左には加太の田倉崎、沖には淡路島が画かれ、海岸では武士や町人、大人から子どもまで、熊手やカゴを手に持って潮干狩りを楽しんでいます。なかには振袖のおてんば娘の姿も見えます。ここではハマグリやアサリが取れました。
右下の傘を広げた下に壺がみえますが、何を売っているのでしょうか。木陰では縁台に座ってキセルでタバコを飲んだり、重箱をひろげ飲食しています。約200年前の水軒浜の長閑な初夏の風景です。(和歌山市教育委員会文化振興課 額田雅裕 )(以上ニュース和歌山より)
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和歌山県指定史跡「水軒堤防」 現地公開・2008.10.11
・資料提供(財)和歌山県文化財センター
調査の結果
今回の調査では、はじめて石堤裾部の構造が判明しました。石堤の基低部には胴木と呼ばれる土台木が置かれ、その上に和泉砂岩が積み上げられています。胴木は直径15cmで。30cm間隔に打ち込まれた木杭により抜け出さないよう固定されています。
石堤基底部の前面(海側)には、石が広範囲にわたり敷き詰められていることがわかりました。この石敷は、波浪により基底部下の砂が流れ出し、堤防が崩壊することを防ぐためのもので、いわゆる根固めに相当するものと考えられます。
約1m幅で階段状に海側へ下がっており、今回の調査では4段確認しました。調査区より西側へ続くことから5m以上設置されているようです。石材は、緑色片石や和泉砂岩を用いていますが、多くは波により抜けださないよう立てた状態で設置されています。
また、石堤の断面形状が確認できた点も大きな成果の一つです。石堤は城の石垣の築造技術を利用して作られており、表面の長さに対して2倍から3倍の奥行を持つ強固な構造から、この水軒堤防の果たす役割の重要性を読み取ることができます。
現場調査をする担当者 |
和歌山県調査の「水軒堤防」 |
昭和初期の「水軒の浜」遠景 ニュース和歌山が丁度この時期「徳川遺産」としてシリーズで掲載したなかに「水軒堤防」に関する記事があるので、ご参考までに掲げておきます (クリックで拡大します) |
良い画です 利用させていただけませんか
返信削除目下 和歌山今昔エッセイ製作中です。
阪本慶二さま
返信削除別途メルアドへメールさせて頂きましたので,それにそって
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