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2011年9月29日木曜日

「和歌浦の風景」その10.紀州天満宮

 さきに和歌浦が国の名勝指定を受けた時に紹介した史跡・名所等を除き、新たに「和歌浦の風景」として和歌山城から和歌浦への「和歌道」の途中にある名所・寺社等を紹介してきたこのシリーズも今回の「天満宮」で都合10回の最後となります。
 

 菅原道真が藤原氏の謀略にて無実の罪を着せられ、左遷により太宰府に流されたとき、この和歌浦の地で天候が回復する船待ちをしたとき、歌を2首詠んでいる。今回はこの歌を紹介して、このシリーズの終わりといたしたい。「和歌浦の風景」の記事と絵の大部分をニュース和歌山新聞社の連載から転載させて頂いたことをお許し願いこのシリーズの終わりとし、次回は最後に今から100年前の8月有名な文豪夏目漱石が和歌浦で2泊し、講演会を開催し100年後の今日を予想するような有名な講演を行い、また和歌浦を詠んだ俳句を遺しているので、それを紹介することとしたい。

老いを積む身は浮き船に誘われて遠ざかり行く和歌浦波     菅原道真

見ざりつる古しべまでも悔しきは和歌吹上げの浦の曙       菅原道真

(この記事はニュース和歌山09.12.5カラーで読む『紀伊国名所図会』・湿地化進む入江と水鳥居⑨天満宮より転載させて頂きました)

上の絵は、和歌浦の天満宮付近の約200年前の風景です。天満宮は、天神山(標高82メートル)の中腹に建つ和歌浦一帯の地主神(じしゅがみ)で、菅原道真を祭神とする神社です。
延喜元年(901)、道真が大宰府に左遷された時に、風雨を避けるため和歌浦に立ち寄ったとされ、康保年間(964〜68)、橘直幹(なおもと)が大宰府から帰洛の途中、ここに立ち寄り道真を追想して社殿を建立したのが天満宮の始まりといいます。天正13年(1585)、兵火によって社殿を焼失しましたが、慶長11年(1606)、藩主浅野幸長によって本殿・中門・楼門(重文)などが再興されました。
中央左、片男波砂州の付根にある「出嶋」は、岸には舟が繋がれ、魚が天日干しされており、和歌本村から分かれた漁業集落と思われます。その左が海、右が和歌浦の入江(現=御手洗池付近)で、アシなど水生植物が生え、入江は浅く湿地化している様子がうかがえます。
入江に建つ朱色の鳥居は、天満宮のシンボルの水鳥居で厳島神社の大鳥居のようです。入江から片男波砂州には、和歌の松原が広がっています。  
( 和歌山市教育委員会 額田雅裕)(以上ニュース和歌山新聞より転載しました)
(天満宮案内はクリックで拡大してお読み下さい)

天満宮大鳥居

登り坂から天満宮を臨む

天満宮楼門

天満宮全景
  全国に天満宮と称する神社は数多くあるが、江戸時代の朱子学者で、徳川家康のブレーンも勤めた林羅山は、元和7(1621)年、この地を訪れ、和歌浦天満宮は太宰府天満宮・北野天満宮と共に由緒がある神社であると言っている。
(「和歌浦の風景」シリーズ ・ おわり)

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