根来塗(ねごろぬり)は、日本の塗装技法の一種であり、黒漆による下塗りに朱漆塗りを施す漆器である。名称は紀州(現在の和歌山県)の「根来寺・ねごろじ」に由来する。
「湯桶」・バーミングハム美術館所蔵 |
・「古根来塗」漆器の数々
一般に、古い朱漆器では、表面の朱漆が摩滅して、下地に塗られた黒漆が所々露出し、模様のように見えることが多い。これを人為的に再現し、朱塗の中に黒い部分が浮かぶのを、デザインとして見せることも行われている。
最近では黒の下地に朱の上塗りを施し、朱塗りの一部を研ぎ出し、下地の黒を出すように、わざと拵えたモノを「根来塗」と称している。
また、現代の生活様式に合うように拵えた製品や「モダンアート」とよばれる「モダン・ネゴロ」も登場している。黒江の町中には「根来塗り体験教室」が開かれていて、誰でも手軽に実際に体験できるようにし、結構賑わっている。 ”自分だけのネゴロ塗り”という訳か!
この「根来塗」は、元々は1585年(天正13)豊臣秀吉の根来攻めにあたって、根来寺の漆器職人達も根来を退去し、地元海南・黒江、石川県・輪島、鹿児島県になった薩摩等に移住して、それぞれの土地に漆器の技法を伝えたとされる。朱漆をかけず、黒漆のまま仕上げたものは、「黒根来」と呼ばれることがあり、茶道具として珍重されている。
「地場産業としての根来塗」
「根来塗り」のお膝元、和歌山県は、木材が豊富なこともあり、根来寺以来の伝統産業として、漆器が作られ続けた。高度成長期には、いちはやくプラスチック成型や、スクリーン印刷による蒔絵等、近代的な技術を採り入れた。これにより、昭和50年代の最盛期には、200億円規模の売上を誇った。しかし、このことが、かえって伝統技術の継承者を減らす原因となり、やがて安価な中国製品が輸入されるに及んで、急速な衰退を招いた。
そこで県は、伝統技術を保護し、地場産業としての発展を促進するため、1929年からあった「漆器試験場」を、1997年に「漆器研究開発室」に改組し、根来塗を含む紀州漆器の技術伝承、商品開発、人材育成を行っている。
また、岩出市は、根来寺に隣接して「岩出市民俗資料館」を設置しており、館内の根来塗工房では、製作工程の見学も可能となっている。
根来寺には寺内に「根来寺文化研究所」という、組織を設けていて根来寺の昔から現在に至る遺跡発掘を含め、いろんな文化財的研究が行われているし、地元和歌山県でも「根来塗り」の文化発信も行っている。長くなるが、県が文化情報発信として発刊している「連」というパンフに紹介された「根来塗り」の記事を、ここに引用。掲載させて頂く。
「連」Ver.7より・・・
漆という言葉は、麗(うるお)し、美(うるわ)しが、転訛したものと言われる。漆器の光沢、深みある色、滑らかでぬくもりのある手触りは、まさに麗しくも美しいものだ。 いま、漆器の生産地として名高いのは、輪島塗の石川県、会津塗の福島県だが、和歌山県は、かつてそれらと並び称される漆器の産地であった。いやそればかりか、近代漆器のルーツは、和歌山に生まれた根来塗だという! 発祥の地は根来寺 “根来もの”“根来塗”といえば、骨董や器好きならもちろん、だれもが一度ならず耳にしたことがあるのではないだろうか。 長の歳月使い込まれれば、上塗りの朱が擦れ、下地の黒漆が浮き上がり、趣ある抽象模様が描き出される根来塗は、「用の美」で全国に名の知れた漆器だ。古美術の世界では、根来といえば高値がつき、国内はもとより欧米の好事家にも人気だという。 その根来塗の発祥の地が、和歌山県北部の岩出町にある根来寺。鎌倉期から南北朝時代にかけて隆盛を極めたこの寺では、数千人にも上る僧たちが日常に使う什器として、大量の漆器が生産された。大規模な工房とともに大勢の優れた工人も居たと思われるが、天正13(1585)年、歴史に名高い豊臣秀吉の根来攻めで、一山灰燼に帰した。工人たちは散り散りになり、和歌山県の海南黒江を始め、輪島や薩摩に行き着いて、根来塗の技法を伝えたと言う。根来塗が、近代漆器のルーツと言われる所以だ。 |
発掘された根来塗の器は、まず漆器研究 開発室のパソコン上で復元される。 根来寺から発掘された器の特徴をスキャナー で読み取り、CGで復元した形は17パターン。 そこから、現代の生活にマッチした食卓用の 漆器の開発を行うため、試作した器の数々。 |
紀州は、熊野原生林が背後に控えた良質の木材の宝庫。古くから漆器の産地だったと思います」と言うのは沖見龍二さん。 |
出土品を復元したら…
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2分の1サイズで 復元された「豆子」。
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[根来塗の基本行程]1つの椀にも多くの時間と労力が費やされる。また、工程の大部分が下地に掛けられ、 塗は最後の仕上げ。 | ||||||
1-素地作り。 素材は、最も変形しにくく、美しい欅(ケヤキ)の木が使われることが多い。丸太で1年寝かせて乾燥させ、荒ぐりをしてから、「一気にくると割れるので」、さらに半年~1年置いて、素地の形に仕上げる。 |
2-布着せ・布目ずり。 素地の角など、弱い部分の強度を上げるために麻布を張る。次の工程、錆下地のために、漆などで布の目をつぶす。 |
3-錆下地。 生漆と、とのこ(土の粉)、水を混ぜて、ヘラでつけ、砥石で研ぐ。2つの作業を繰り返し、2~3回行う。ここで使われる木製のヘラを始めほとんどの道具も手作りだ。 |
4-下塗・上塗。 漆が塵や埃を嫌うので塗り場 は他の作業場とは別の小部屋 で行われる。黒漆を塗り、炭で 研ぐ。 サンドペーパーなどより表面が 平らになるので、炭が使われる。 これを1~2回行う。ここまで、 何度もよく乾かしては作業する ため、約3カ月かかる。最後に、 朱漆を塗る。朱色を作るため の原料シンシャは、昔は金と 同等の価値があり、朱塗の 漆器は高級なものの代名詞 だった。この後、杉張りの乾燥 室漆風呂に入れて乾燥させれ ば品のいい艶が出て完成となる。 |
根来寺が正式に「根来塗り塗師」として公認した人に池ノ上曙山さんという方がおられる。この方は弟子を育て弟子と共に展示会を開催したり、伝統ある「根来塗り」の技法を将来に伝えるべく制作に励んでおられる。このブログでも過去池ノ上氏のことを何度か採り上げたことがあるが、「わかやま新報」社のお許しを得たので、次回は最新の情報も交えて同氏のことを採り上げることと致したい.。引き続きお読み下さい!
次回へ続く・・・!
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