◎ 加太淡島神社「雛流し祭り」とは
「流し雛」とは淡島信仰と関連があるのだろうか。それは和歌山市にある加太淡島神社の成立とその後の歴史に深く関わっています。
淡島神社社殿を埋め尽くす雛たち |
少彦名命は体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、医薬・まじないなどの法を創めたとされ、大己貴命は大国主命の別名で少彦名命と協力して天下を経営したとされる。息長足姫尊は神功皇后である。
江戸後期に和歌山藩によって編纂され天保10年(1839)に成稿した『紀伊続風土記』により簡単にまとめると、神社の由来は次のとおりである。
「神社は上古、加太の沖にある友ヶ島(淡州または淡島また粟島とも言う。沖ノ島・地ノ島・神島・虎島の4つの島からなる)の神島に鎮座していた。当時は少彦名命と大己貴命の二座を祀っていた。神社の社家では次のように伝えている。神功皇后が筑紫から凱旋するとき、皇子を竹内宿禰に託して紀伊国に赴かせ、皇后が難波の方に至ると海上でにわかに風波の難にあった。皇后は自ら苫(葦や茅でできた舟の覆い)を海に投げ入れて神の助けを祈り、苫の流れゆくままに舟を漕がせてゆくと、淡島(神島)に着いた。これは神の擁護によれるなりと韓国で得た宝物を神殿に納めた。その後、仁徳天皇が淡路島に遊猟されたとき、この社を加太の地に遷し、神功皇后の崇敬された神社であるので、皇后を合わせ祀り、一宮三坐の神とし加太神社と称した。」
江戸初期にひいな遊びを神社の由来に取り込む
以上が加太淡島神社の由来であるが、続いて『紀伊続風土記』は奇妙な文を続けている。
それは「寛文記に、淡島明神は天照大神の姫宮で住吉明神の后という。俗信には天照大神の第六の姫宮という、(中略)何れも索強付会(無理にこじつけた)の説にて信じかたし」という内容である。
寛文時代(1661-1672)は、というと江戸前期である。この頃、淡島神社の由来にこじつけ(索強付会)と『紀伊続風土記』の著者が呼んだ俗説が登場したのであろうか。
どんなこじつけなのか。江戸後期の風俗見聞集に、「淡島明神、鈴をふる願人、天照皇大神宮第六番目の姫宮にて渡り給ふ。御年十六歳の春の頃、住吉の一の后そなはらせ給う神の御身にも、うるさい病をうけさせ給ふ。綾の巻物、十二の神楽をとりそへ、うつろ船にのせ、さかひ(堺)は七度の浜より流され給ふ。あくる三月三日淡島に着給う。巻物をとり出し、ひな形をきざませ給ふ。ひな遊びのはじまり、丑寅の御方は、針さしそまつにせぬ供養、御本地は福一まんこくぞう、紀州なぎさの郡加太淡島明神、身体堅固の願折針をやる」
これは淡島神社の御利益を語って各地をまわった淡島願人(特殊な乞食)が話す内容を記録したものである。それによると、「淡島の神は天照大神の六番目の姫宮として生まれ、十六歳のとき住吉明神の一の后となった。しかしうるさい病(下の病=婦人病)にかかったので、綾の巻物および十二の神楽とともにうつろ船(中が空になった船)に乗せられ堺の七度の浜から流された。翌三月三日に淡島に着いた。巻物を取り出してひな形を切り出した。これがひな遊びのはじまりである。(以下略)」となっている。
なんと淡島の神は天照皇大神宮の姫宮で、しかも下の病(婦人病)を患い船で淡島に流されたという民間伝承が広まったのである。
しかも淡島に流れ着いたのが三月三日で、そこでひな形を刻んだことから、これが「ひいな遊び」のはじまりであるという俗説まで成立した。
しかしこれはあくまでも民間の俗説である。
ひな形 |
加太神社御守雛 |
「加太淡島神社御守雛の縁起」
由来を簡単に記し、常に懐中に持てば武運長久・海上安全・腰より下の病に苦しむ事なしと説いている。(昭和初期・北村英三氏提供)
神社の社家の言い伝えでは、「今の世に例年三月三日、九月九日、女子雛祭りの遊戯あることは、往古神功皇后手ずから少彦名命の御神像を作りて、当社に奉納なしたまひしより事起れり。其後仁徳天皇の御宇、神託によつて天下婦女幼児の病苦を払除のため宇礼豆玖物(うれつくりもの)とて雛がたを製してこれを玩遊ばしめ玉へり。また天児といへるも少彦名命の御神像にしてこれをまつること雛遊ひの巻に見えたり。」(『紀伊国名所図会』文化9年・1812)とあって、神功皇后がみずからが少彦名命のかたちを作って神社に納めたのが、雛遊びの始まりと説明している。
なお現代の加太淡島神社は、この由来を「御祭神の小彦命、神功皇后の男女一対の像が男雛女雛の始まりであると言われる」としている。淡島神社が領布している御守雛は、御祭神の小彦命、神功皇后の男女一対の像をかたどったものである。
ともかく淡島神社は江戸時代に入ると急速に「雛遊び」を神社のいわれに取り込み、三月三日を祭礼とし、女性を対象に信者獲得に走りはじめたのである。
室町時代の例祭が四月二十日(『式内社調査報告』第23巻)と書かれているのみで、三月三日がいつから祭礼となったのか定かでないが、江戸時代にはいると「四時祭礼三月三日、四月八日、九月九日、十一月十三日」(紀伊国名所図会)と、四つの例祭のひとつとなり、さらに『紀伊続風土記』では「祭礼三月三日を大祭とす」とあり、淡島神社の最も大きな祭りとなったのである。
加太淡島神社が三月三日の例祭に何をしていたかについては、『紀伊続風土記』に「祭礼三月三日を大祭とす。御輿神幸所に渡御あり。神幸所は飽等浜にあり。児獅子舞、面かつき等あり。又村中の旧家、皆素襖を着て御輿供奉をなす。其式頗る賑はし。又加太浦は三月三日潮乾の名所なれば、国中の貴賤、他邦の男女船を泛(うか)へて群衆す。(中略)しん紳家(身分の高い人)諸侯方及び諸国の士庶(一般の民)より、雛ならびに雛の其婦人の手道具を奉納する事夥しくして、神殿中に充満す」とあり、飽等浜にあった神幸所へ御輿の渡御が行われ、子供の獅子舞や面かつき等があったこと、この日は干潮になるので諸国から大勢の人が船で訪れ潮干狩りを楽しんだこと、また雛人形や婦人の手道具の奉納がおびただしくて社殿中に充満している様子を記している。
現在の加太淡島神社では、雛人形や婦人の諸道具などの奉納は当時と同じように行われているが、御輿渡御や子供獅子舞などはおこなわれていない。
いまは、これらの行事は現在、近くの加太春日神社で「えび祭り」として五月に行われているという。
当時、春日神社と淡島神社とは宮司が兼務していたため、春日神社の行事が淡島神社の例祭のように書かれたのではないかというのが、現、前田光穂宮司のお話である。
ところで現在の加太淡島神社の三月三日は、雛流しが行われている。
全国から奉納されたひな人形などが白木造りの船に載せられ海に流される。
この雛流しは『紀伊続風土記』に書かれていない。いつから始まったのだろうか。この点について前田宮司は、昭和37年(1962)からだそうである。
それまでは神社で祈祷を受けた「ひとがた」や「人形」を個人の方が、それぞれ海へ流していたという。それを神社の行事として昭和37年から行うようになったのだそうである。この有名な行事も起源は以外に新しいのである。
(本稿は『郷玩文化』169号 05年6月刊 郷土玩具文化研究会発行、に掲載された論文から転載しました)
稚児さんによる進行司会 |
幼稚園児による「ひな祭り」の合唱 |
稚児・巫女さんに運ばれる雛たち |
船着場でのお祓い |
雛流しの船出 |
沖に流される舟を見送る巫女たち |
それから、もう一つの「紀州海南ひな巡り」の「ヒナたち」は、どうしたのだろうか?
実は3日18時、「ひな納め式」が挙行され、2月1日から開催されてきた「ひな巡り」が閉会した。ヒナたちは来年の再展示の期待を担って200m先の玩具店へと「光の道」を静かに行列した。
この記事については、次回に掲載します。
モノノフでござる^^
返信削除200m先の玩具店? はてさて?
なるほどミミーちゃんでござりまするな^^
川端君の管轄と相成るわけじゃのぉw
モノノフさま
返信削除よ~く聞いたら一番街のシャッターが下りた空き店舗に
格納したそうです。ミミーさんのお世話だと思います。
ココに入っていた「イネイ」のオモチャ屋さん。海南
高校の同級生です。元は、栄通りに店があったのですが
一番街界隈の活性化が望まれます。
今回の「紀州海南ひなめぐり」素人集団で、初めての
試みとしては上出来でした。市民病院やオオクワの進出
等で、もう少し盛り上げて欲しいです。