国宝・尾形光琳作「紅梅図屏風」 |
国宝・尾形光琳作「白梅図屏風」
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”梅一輪、一輪ほどの あたたかさ” 服部嵐雪
梅一輪 |
ここ1週間ほどは、連日13度程度の温かさで風も吹かず、これが2月上旬の気候かと、もうすぐにでも春がそこまでやって来ているような錯覚に囚われそうです。
2月6日現在「梅開花」状況 |
咲きそうな予感、同じ予感でも今はまだまだ「余寒きびしい時期」なのですが・・・
梅一輪、一輪と・・・! |
地元で開催の「紀州海南ひなめぐり」は、まさに季節を先取りして「桃の節句」の行事なのですが、「紀州海南ひなめぐり」第2部・第3部のアップ取材までのツナギに、今回は南部梅林風景をアップします。
近いうちに「紀州海南ひなめぐり」第2部・第3部をアップ予定ですので、もうしばらくお待ちくださるようお願いします。
そういうことで、いまが盛りの「梅」に因む有名な俳句を掲げておきますので、「梅の花」の画像を眺めながら、お楽しみください。
さあ春です。私たちにとっては今年は花粉症の当たり年だとか、花粉症にに悩まされる春です。「梅の花」も花粉症の犯人になるのかなぁ~!
”梅が香に のっと日の出る 山路かな” 松尾芭蕉
この頃は梅は「ムメ」と読んだらしい。これもカナを振れば「ムメガカニ」である。
この句は「かるみ」の代表句と言われる。私には「かるみ」という概念そのものがちゃんと理解出来ていないが、ときは、元禄6年の作だから晩年である。
従って確かに芭蕉が「かるみ」を主張していたころではある。
「のっと」という擬態語が何と言っても眼を引く。 朝早く宿を出て旅を急ぐのに、山路だから目の前が開けたとき、急に日が出てきたように感じたのだろう。早春の朝まだき、梅の香の中でのこの情景は美しい。
”梅若菜 鞠子の宿の とろゝ汁” 松尾芭蕉
挨拶句のきまりとして、眼前に見えるものを詠み込むということがあったらしい。とすると梅の花が近くにあり、若菜が食膳に上っていたのだろう。鞠子からは眼前ではない。和歌的な梅・若菜と鄙びたとろろ汁との取り合わせで俳諧になっている。今なら「季重なり!」と目くじらを立てるところだが、寿ぎの席だから許そう。
” むめ一輪 一りんほどの あたたかさ” 服部嵐雪
冒頭に掲げた句であるが、本来は「うめ」ではなく「むね」なのである。
人口に膾炙された句である。嵐雪は芭蕉の弟子。これも「梅」と「あたたかさ」という季が重なった禁じ手を使っている。要するに当時はおおらかだったのである。
季寄せと顔を突き合せてチェックする必要もなかった。
この句は梅がどう人に愛されているかを良く表わしている。まだ一輪ほどでも、咲いたというだけで人の心は春めいてくる。 日本画に描かれた梅は開ききったものは殆んどない。開き始めが梅の愛される時季なのである。
”二もとの 梅に遅速を 愛す哉” 与謝蕪村
これはよく見かける情景である。2本の梅の木の開花時期がずれていることがある。日当たりの関係なのか、それとも梅の木そのもののDNAによるものか、特に紅梅と白梅ではずれることが多い。
単純に「愛す」と言ったところが蕪村らしく大らかでいい。人間にも早熟な者と晩熟の者がおり同時に早く老ける人といつまでも若い人がいる。そんな違いも同時に「愛す」のだろう。
”白梅や 誰が昔より 垣の外 ” 与謝蕪村
単純に、何時からとも知れず垣の外にあった梅が、今年も白い花を付けたと解釈していいだろう。勿論こんな散文にしてしまえば面白くも何ともない。「白梅や」という詠嘆に近い切れ字が入っているため、この梅に対する愛情が汲み取れる。
そのせいか垣の外には昔の恋人が立っていると解釈する向きもあるようだ。
何故恋人?それは漱石の項で述べる。
”梅咲けど 鶯啼けど ひとり哉” 小林一茶
何時の作か知らない。しかし一茶が寂しい一生を送ったことは知っている。年老いてから恵まれた子供に次々に先立たれ、若い妻にさえ先立たれてしまう。
季節は巡って活動的な春になったけど、やはり独りというのは身にしみる。こんなことを考えると多分晩年の作だろうと思う。
”紅くあかく 海のほとりに 梅を干す” 山口誓子
計算された美しさである。紅い梅干を一面に干した海岸。その側の海の色との対比を意識的に入れている。「紅くあかく」と繰り返したところにも、またその強調が入る。ただ技巧が勝ち過ぎていると何となく心に響いてくる強さが無くなる。
”梅の奥に たれやら住んで かすかな灯” 夏目漱石
これは短歌の世界での「梅」の本意(ほい)を心得た句である。
梅は本来垣根の内側にある梅の花をみて、そこに住む人のゆかしさを思いやるという概念がある。
上に挙げた蕪村の句は、ある意味ではそれを逆手に取った句とも言える。
「外に佇つ人のゆかしさ」と取ると恋人説とも繋がる。
梅とそこに住む人とを配すると、不思議なことに悪人は思い浮かばない。
男女を問わず名誉欲のない、ひっそりとした生活を送っている人が思い浮かぶ。「梅」という季語の効能だろう。
”勇気こそ 地の塩なれや 梅真白” 中村草田男
難解句が多い草田男の句の代表格である。
盆栽的ホトトギス、美を誇る秋桜子、知性的誓子にない血の流れている人間を感じさせるからである。
わたしは聖書のことには詳しくないが 「地の塩」とは新約聖書マタイ伝第5章に出てくるそうだ。「地の塩」がある限りそこにある物は新鮮に保たれる。
要するに勇気を持たないと社会は腐りきってしまうという、自己主張そのものである。「梅真白」が無かったら救いようのない標語のようになってしまっただろう。 白い塩と白い梅、これを近すぎると見るか、だからいいと見るかは意見が分かれるだろうが、紅梅では駄目である。
”梅咲きぬ 温泉(いでゆ)は爪の 伸び易き” 梶井基次郎
確かに暖かいと爪は早く伸びるような気がする。春を迎え、まして温泉に浸っているのである。作者はこれを発見したのだろう。真理かどうかの証明は要らない。詩の世界では本人がそう思えばそれが真理なのである。
”傍(かたわら)に 人無きごとく 梅にあり ” 高濱虚子
「朝顔につるべ取られて」という千代女の句(と言われている)に似た作為がある。俺はこんなに梅の花を愛でているんだよ、傍らの人も忘れてしまうほどにと。風流人振ったがために却って嫌味になってしまうことがある。要注意。
「梅見月」の異名があるこの2月、「梅の画像」を楽しみつつ、俳句で季節と風情を感じ、
”春の海 ひねもすのたり のたりかな”春眠暁を覚えず、ではなくて、
『早春賦』・吉丸一昌作詞・中田章作曲(1913(大正2)年制作)を口ずさもう!
ウグイス |
時にあらずと 声もたてず 時にあらずと 声もたてず
氷融け去り 葦はつのぐむ さては時ぞと 思うあやにく ♫
今日も昨日も 雪の空 今日も昨日も 雪の空
春と聞かねば 知らでありしを 聞けばせかるる 胸の思いを ♫
いかにせよと この頃かいかにせよと この頃
なおそのうえに、日中までウツラウツラと眠くなる早春賦でした。
(付録) 滅多に見られない風景
白浜・円月島の海蝕洞に沈みゆく夕日 |
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光琳の梅は、ずいぶん前に熱海のMOA美術館で観たきりです。
返信削除今日は、横山大観の「秋色」を観ました。
平山郁夫さんの奥さんのことは、以前EYASUKOさんがブログで紹介されていたので読みました。
すごいご夫婦ですね!
megさん
返信削除比較的穏やかな日が続いています。この調子で行けば、上に
挙げた「梅一輪 一輪ほどの あたたかさ」の梅がパッと
咲くかも・・・有名な「南部梅林」3日オープンしました。
尾形の「紅梅・白梅図屏風絵」構図といい彩色といい大胆で
豪華です。琳派の代表的絵画でしょう!
平山画伯夫妻と県知事との07年の対談、ここへアクセスすれ
ば出てくるとおもいます。
【ようこそ和歌山へ】シルクロードから世界遺産「高野・
熊野」へ