当初は、「木国」(きのくに)であったが、和銅6年(713年)に、雅字(良い文字の意)二文字で国名を表すようにとの勅令が出された時、「「紀伊国」」と表記するようになったという。
当初「伊」は読まれなかったが、後に「きいのくに」と読まれるようになった。
「木国」の名称の由来として、雨が多く森林が生い茂っている様相から「木国」と命名された、という説がある。その証に沿線にある「伊太祁曽神社」の主祭神は「五十猛(イソタケル)神」は、日本神話に登場する神、「イタケル」とも読まれる。『日本書紀』『先代旧事本紀』に登場するが、『古事記』に登場する大屋毘古神(オホヤビコ)と同一神とされる。
素戔嗚尊(スサノオ)の子で、オオヤツヒメ・ツマツヒメは妹。『日本書紀』、『先代旧事本紀』の記述から、五十猛神は林業の神として信仰されている。紀伊は古来より林業の盛んな地であったので、それらの人々が信仰していた神と考えられる。
しかし、これに対して別な説もあり、それによれば今の和歌山県北部が、有力豪族である紀氏が支配していた地域であるから「紀の国」というようになったという。
実際に、律令制以前の紀伊国は紀伊国造の領土のみであり、熊野国造の領土(牟婁郡=熊野地方)を含まなかった。 このように「紀伊国」の歴史は古く、『古事記』には神武天皇が大和に入る時に紀伊熊野を通ったとされるなど、事実はともかく、奈良盆地を地盤とするヤマト王権から知られた国であったし、海にでるには紀ノ川を下れば太平洋、瀬戸内海へつながり、事実海を隔てた朝鮮半島、中国とも往来していた記録が遺されている。
「神武東征」説話で、即位前の神武天皇が熊野上陸の伝承をさきに書いたが、熊野上陸前に現在の和歌山市にさきに上陸したのである。
『古事記』によれば、大和へ進軍しようとした神武の軍は登美(現・生駒市)の地に住む那賀須泥昆古(ながすねひこ)と戦を挑み、相手が放った矢が神武の兄の五瀬命(いつせのみこと)の手に鋭く突き刺さって深手を負った。
そこで、五瀬命がいうには「私は神の御子なのだから、敵を東の方、すなわち太陽の方向に置いて戦うのは宜しくないことだ。今から道を迂回して太陽を背に負う陣形にして、敵を撃とう。」と、このように誓いをたて、南へ迂回し和泉灘である血沼の海(ちぬのうみ)に至り、傷を受けた手を洗った。
それ故ここを血沼の海という。そこからさらに迂回して進んでゆくうちに紀国(きのくに)の男之水門(おのみなと)まで行ったところで「賤しい奴のために手傷を負って、それがために死なねばならないのか!」、このように奮い立ち、雄叫びの声を上げ、ついに息絶えた。 この雄叫びの故にその地を「男之水門(おのみなと)」という。紀国の竃山に葬った、とある。
これが、これから話をしようとしている「竃山神社」なのである。つまり神武の兄「五瀬命」の陵(みささぎ)なのである。
いまでも、和歌山県庁の北に「雄湊(おのみなと)」という名前が残っているのは、このときの名残であろう。
「たま駅長」 |
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では、新聞記事から「竃山神社」と和歌山電鉄「たま駅長」との新旧対決について・・・
「竃山神社」 |
紀伊国名所図会「竃山神社」 |
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