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2011年2月13日日曜日

14日・海南・春日神社節分「ぶりぶり祭」開催さる!

”春はあけぼの やふやふ白くなりゆく山ぎは 少し明かりて 紫立ちたる雲のたなびきたる・・・”と、清少納言は「枕草子」で「春暁」を称へ、
これとは対象的に作詞家・高野辰之は「朧月夜」で
”菜の花畠に 入日薄れ 見渡す山の端 霞深し”と、「春の夕暮れ」を讃える。
 
 わたしは、「ひねもす のたりのたりかな」で日を過ごし、夕暮れ時には春宵一刻値千金とばかり、好みの徳利とぐい呑みで春の宵を楽しむ。曰く「独酌余滴」!
人さまざまな、のどかな春の日の過ごし方ア・ラ・カルトでした。
 
 ところで、そうこうしているうちに2.3日が過ぎ去った。
「ひなめぐり」の追っかけで日を過ごし、わたしの家とは関係深い地元「春日神社」の節分行事「ぶりぶり大祭」のアップが後回しになってしまったのだ。
 そこで、きょうは去る11日に行われた地元春日神社「ぶりぶり大祭」を、時計の針を巻き戻して書くことにしようと思います。
  
変わりヒナの「つるし雛」

春の風情・梅と菜の花をこき混ぜて
 今回は、「紀州海南ひなめぐり」を優先したので、春日神社の節分の「ぶりぶり大祭」の行事は見逃してしまったが、珍しい行事で、また同神社での「ぶりぶり大祭」の始まりは江戸時代初期に始まるので、諸資料の提供を受けて、遅ればせながら記事にしたく、ここにルポした次第である。
春日神社拝殿


「ぶりぶり大祭」風景
  『節分ぶりぶり大祭』再開12年目・2月 海南・春日神社にて!
 
 海南市大野中の春日神社で厄除け、方位除けを祈願する「節分ぶりぶり大祭」が2月3日から11日にかけて開かれた。
 江戸時代に行われていた祭りを再開して今年で12年目。三上秀信宮司は「和歌山市や有田市から訪れる人もおり、“ぶりぶり”の名前は定着しつつあります。寒い時期ですが、ぜひ参拝を」と話している。
 同神社はかつて、大野十番頭と呼ばれる十人が1年交代で神主を務めていた。その1人で、天正時代の石倉三左エ門は「容膝軒一入子(ようしっけんいちにゅうし)」の名で俳人として活躍しており、“海南の俳句の祖”とも呼ばれている。

 三上宮司が石倉家について調べるなか、年毎の廻り神主として活動していた当時、節分に祭りを行っていたことが判明。
 「ぶりぶり」の語源は分かっておらず、「厄を振る」「方位を振り替える」から付けられたとする説や、当時のおもちゃ「ぶりぶり」からとった説がある。
 祭りの内容や開かれていた時代の詳細も不明だが、

「俳人だった彼によると、2月上旬は植物が芽を出す前、つまり根にエネルギーをたくわえている時期。神社のある春日の森全体がエネルギーにあふれている時期にお参りすることで、1年間の無病息災を祈願したようです」と三上宮司は説明する。
一入子「句碑」(春日神社境内・石倉家寄贈)
 いつしか途絶えた祭りを2000年に再開。同神社では“厄”を“八九”と呼んでおり、2月3日から八夜九日目となる2月11日までの期間、厄除けや方位除け、八方除け、家相の鑑定を行う。

 期間中は大黒様を置き、健康を祈りながらなでてもらう。今年は2月11日(祝日)豆まきと紀の国太鼓演奏があった。    ◇             ◇
  戦国時代わが紀州が生んだ俳人石倉三郎兵衛重直は大野郷「春日神社」に仕える大野十番頭家の石倉家の一族。
 俳号を「容膝軒一入子」と称した。
 
”年の緒や いく七廻り 千代の春”(春日神社境内に建立された句碑) 

 天正五(1577)年2月織田信長の紀州雑賀攻めのとき石倉氏は「雑賀方」に味方し、「第2次雑賀攻め」が行われた同年8月16日大野郷「井松原合戦」で、信長軍が到着する前に合戦の火蓋が切って落とされ、大野十番頭も仲間内で信長方(日方方):反信長方(雑賀方)に分れ、雑賀方には紀州の多数の土豪が味方し、戦は半日で決着、二百数十余名に及ぶ戦死者を出した。
 こうして、石倉氏は勢力を誇ったが、天正10年信長が「本能寺の変」で死亡、信長の跡目争いで豊臣秀吉が信長の嫡孫を跡目とし、柴田勝家・織田信孝らと争い、賤ヶ岳の戦えを経て、今度は徳川家康・信長次男織田信雄連合軍と睨み合い、天正12年に「小牧長久手の戦い」を引き起こし、のち両者和睦したが、この
とき徳川家康は紀州の雑賀衆や根来寺や土豪に働きかけ、小牧長久手に出陣した秀吉が留守にしている大坂城の背後を突くよう味方に付け、これに怒った秀吉が
翌天正13年春「紀州征伐」に大軍を差し向け、「根来寺」を焼き討ち、「太田城」を水攻めにするなど、紀州の地を平定した。このとき紀州の大半の寺社は焼かれ、灰塵に帰してしまった。
 石倉氏も家康方に味方したことで、秀吉のブラックリストに載る身になり、始終殺され掛かる目にあい、ために慶長12(1607)年、紀伊長島の地へ一族を引き連れ落ち延びた。

 氏は、若くして俳諧を楽しみ、「容膝軒一入子」と号し、数々の有名な句を遺し、また娘の長女(ながめ)も父に付いて俳諧を学び「古今俳諧女歌仙」には長女の句が載せられ、また和歌浦玉津島神社には、彼女の句が絵入りで掲げられており、紀州が生んだ俳人である。


”ぶりぶりや 神のちからの 玉津島” (西鶴・「古今俳諧女歌仙」収録・長女作) 
 
 これらのことは40年ほど前に刊行された『海南風土記』(雑が紀光著)第百三十七話「俳諧今昔」のなかに、こう記されています。
 江戸時代の文人井原西鶴の俳諧年鑑に「としの緒や いく七周り 千代の春」の外いくつかの句が載せられているが、これは地元海南が生んだ俳人、容膝軒一入の一連の句である。西鶴は「五人女」など小説で有名であるが、俳人としても知られており、彼はわが容膝軒を高く評価している。
 さて、容膝軒は石倉三郎兵衛といい、大野十番頭の一つ、井松原合戦で信長方を打ち破ったのであるが、小牧長久手の戦いに家康に組したため、秀吉方の詮議取り調べが厳しかったため、熊野長島へ落ち延び、風月を友として俳諧の世界へ深入りしたものであった。
 俳諧大系図のも載せられ、明暦版の「玉海集」にも十三句、その他江戸期の俳諧集には、彼の句が載っていないものはない。
 
「秋来ぬと よに託宣や 風の神」  と台風を詠んだものもある。・・・(以下略)

 紀伊長島町在住の石倉氏の後裔たちは、はるか祖先の地である紀州大野郷(現・海南市)や春日神社を度々訪ねることとなり、平成十(1998)年春日神社三上宮司さんの長年の課題であった「大野十番頭」後裔たちの集いと祭典「大野十番頭まつyい」が実現し、それ以来毎年6月のはじめに「大野十番頭まつり」を開催、昔に傚い毎年交替で一日神職を勤めるなど、往時の姿に則り神事を務めているし、これに併せて地元海南の「中世講座」が一般参加を合わせ開催されていることをお伝えしておきたい。これも一つの「温故知新」のぎょうじであろうか?子々孫々に語り継ぎ後世に遺すべき行事であろう!
石倉長生著「石倉家の歴史」
 なお、紀伊長島石倉氏のお一人長生氏が、長年にわたって石倉家の歴史を調べ上げ、512ページに及ぶ「1200年その時代の記録 石倉家の歴史」を私書本として刊行され、わたしも一冊の贈呈に預かったが、石倉氏の歴史を上梓した長生氏は、それから間もなく病を得て亡くなられた。
 この著作にかけた氏の長年に及ぶ努力と情熱を想うとき、この完成発行に全勢力を傾注されたのではと感慨深いものがある。

 代わって、わが尾崎家には平成13年和歌山県立文書館により発刊された「海南市黒江 尾崎家文書目録」の古文書解読による尾崎家の来歴とともに、後世大事にに伝えてゆきたく思っています。                  (以上)  

2 件のコメント:

  1. ネココロネ。2011年2月15日 22:28

    「ぶりぶり」とだけ聞くと、漫画「クレヨンしんちゃん」の「ぶりぶりざえもん」という豚のキャラクターを想起してしまいました。

    ぶりぶり大祭、これは近くブームになりそうな予感!!
    自分は観に行きたいと思いました。

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  2. ネココロネさん
    先日は久方ぶりでお目にかかりお元気そうで何よりでした。
    わたしもお蔭でマズマズです。
    「ぶりぶり」とはなんだろう?と思い検索しましたが適切
    な答えは見つからず仕舞いでしたが、クレオンしんちゃん
    のキャラが一番有名なようで、クレオンしんちゃんの名前
    だけは知ってましたが、中身は知らなかったです。
    「一入子」の娘ながめが「ぶりぶりや 神の力の 玉津島」
    と詠んだのが江戸時代初め、そのころ「魂(たま)ぶりぶり」という遊びがあるにはあったようですが、宮司さんとも
    行く分からないのです。又のお越しをお待ちします。

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