近世は日本四大漆器産地として繁栄してきたが、近年はその衰退に歯止めが掛からず、また一種独特のノコギリの歯状の町並みは「重要伝統建造物保存地区」に指定されるに相応しい姿を残しているが、地元においては近年「町並み保存」や「街おこし運動」を推進しようとするいくつかのグループが生まれている。
その活動も活性化されつつあり、催しも数を増やしてきている。これらにより、「黒江」の町並み保存と活性化が待ち望まれるが、その中の一つのモデルとして「黒江ぬりもの館」を最近A新聞が「和歌山版」の3分2を割いて大きく掲載されたし、各方面からの取材も多くなってきた。そこで「黒江の街のシンボル的存在となってきた「黒江ぬりもの館」を紹介するととにした。なんといっても黒江の街はわたしが生まれ育った街でもあるのだから・・・
◎「黒江の地名の由来」
今から約1300年前の昔、大宝元年(701)持統、文武両帝が牟呂の湯(白浜温泉)への行幸の途中度々ここ黒江に立ち寄られ遊興されたようで、その節、柿本人麻呂も愛する人とも一緒に随伴したのでしょう。そのことが万葉集にある柿本人麻呂の歌で伺えます。
紀州の名水「黒牛の水」の井戸舎 |
黒牛潟を詠んだ柿本人麻呂の萬葉歌碑 |
古(いにしえ)に 妹(いも)と我が見し ぬばたまの 黒牛潟を見ればさぶしも。
(柿本人麻呂)
人麻呂は愛する人を失った寂しさに
黒牛潟に物足りなさを感じつつ過去を偲び詠んだ歌です。 万葉の頃の人々は潮干狩りは珍しかったに違いない。
黒牛の坐像(中言神社境内) |
「紀伊続風土記」の中に「この地いにしえは海の入り江にてその干潟の中に牛に似たる黒き石あり、満潮には隠れ、干潮には現れる。よりて黒牛潟と呼ぶ、黒江は黒牛潟の略語なり」と記されています。黒江と言う地名はこの黒牛潟に由来しています。
この中言神社に 黒牛が奉納されています。
黒江は戦国時代の天正13年(1485)羽柴秀吉の紀州征伐により、新義真言宗の総本山『根来寺』が焼き討ちにあい、根来塗りの技術をもった僧兵がこの地に逃れ、漆器の技術を伝えたことに端を発し、徳川時代には紀州藩の庇護のもとに大いに栄え、独特の町並みとともに、漆器日本四大産地の一つとして繁栄しました。
「紀伊国名所図会」にある「黒江」の漆器 |
ただ近年は漆器業は衰退の一路を辿り、独特の『町並み保存』と『街おこし運動』が熱心な有志の手で盛り上がりつつあることは、黒江で生を受け少年時代を育ったわたしにとっても、まことに意義深いものがあり、この春から下の掲げる『黒江ぬりもの館』のアドバイサー・スタッフの一員として少しでもお役に立てればと考えています。
黒江ぬりもの館パンフレット |
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