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2011年1月5日水曜日

5日・和歌山で見つけた『坂の上の雲』

 21世紀に入って早や12年目を迎えました。
今、世界はグローバル化の波に洗われ、08年9月には、リーマンショックによる世界同時不況や昨年はギリシャ、アイルランド等の国の財政破綻騒動が世界中を駆け巡り、また、中国他の新興国の台頭と領土・領海問題、北朝鮮の核開発問題等世界で解決せねばならない問題を抱えながら、国家や民族のあり方をめぐって混迷を深めるなか、2011年を迎えました。 
 その中で日本は、政権交替から社会構造の変化や価値観の分裂に直面し、進むべき道が見えない状況が続いているのではないでしょうか。暗中模索・視界不良もいいとこです。

 これらのなか、昨年はNHK大河ドラマ『龍馬伝』が大人気に、「この日本という国を変える」という龍馬の強い信念が共感を呼んだのでしょう!
 こうして竜馬ブームが日本国中を吹きまくり、12月には同じくNHK大河ドラマ『坂の上の雲』が12月限定という形で、一昨年に続いて放送され、最終第3部は今年の12月に放送されることが決まっています。

 『龍馬伝』は、「大政奉還」を成し遂げた坂本龍馬が、慶応3(1867)年11月、京都「近江屋」で暗殺されて放送が終わりましたが、『坂の上の雲』は原作者司馬遼太郎が”まことに小さな国が開花期をむかえようとしている”という書き出しのように、ドラマに登場する主人公達の幼少期から、「日清戦争」を経て「日露戦争」に突入し、「旅順港」封鎖に向かった海軍・広瀬中佐の戦死で昨年は終わっています。
 このあと、「旅順攻撃」「日本海海戦」を経て日本の勝利へとドラマは続きますが、それから「まことに小さな国」日本の歩みは、みなさんご存知の通りです。
 それから約100年を経た現在の日本の国の姿は、明治の人にはどのように映っているのでしょうか? 
 
ところで、話があと先になるが、昨12月号「県民の友」の裏表紙に「和歌山で見つけた『坂の上の雲』」という見出しで、わたしの自宅の東隣にある「琴の浦・温山荘園」の創園者で明治から昭和初期の実業家・新田長次郎とドラマの主人公の一人秋山兄弟の兄好古(のち陸軍大将)の長期間にわたる肝胆相照らす交友関係の物語が紹介がされていました。

 新田長次郎氏・秋山好古氏との交友については、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』には少しも登場しませんが、先に同園が国の名勝指定、園内にある建造物が重要文化財に指定されたときに紹介したことがあり、それとは重複しますが、このブログは「温故」というテーマを追ってきたので、改めてもう一度紹介しようと思います。
 
 みなさんも、進行中のドラマから約百余年を経たいま、もう一度明治という時代に立ち戻って日本という国を見詰め直すのもいい機会かも、と思う次第であります。

◎「坂の上の雲」は、国民ひとりひとりが少年のような希望をもって国の近代化に取り組み、そして存亡をかけて日露戦争を戦った「少年の国・明治」の物語です。

 そこには、今の日本と同じように新たな価値観の創造に苦悩・奮闘した明治という時代の精神が生き生きと描かれています。この作品に込められたメッセージは、日本がこれから向かうべき道を考える上で大きなヒントを与えてくれるに違いありません。

 本年を迎えるに当たって県知事さんは「・・・県民の皆様が力を合わせ、ここまで来られたではありませんか。それならば、さらに力を合わせてもっと進みましょう。和歌山を元気に、あたたかい改革で、そして100万人の県民の皆様が力を合わせて、常に前を向いて、ひたむきに取り組みましょう。」と、わたしも微力ながら「貧者の一燈」でも点しましょう!

県民の友 12月号 『琴ノ浦 温山荘園』2010・12月号紹介
 
 海南市の「琴ノ浦 温山荘園」は、今年2月に庭園が国の名勝、6月には建造物が国の重要文化財に指定されました。 同園は、皮革界の発明王と称された新田長次郎翁の別荘として、大正初期から造園され、昭和初期に完成しました。翁の意思により、後に一般の方にも開放されることとなりました。

 司馬遼太郎「坂の上の雲」に登場する秋山好古(よしふる)大将(写真右)も、新田長次郎翁(写真左)と無二の親友(同郷松山出身)であったことから度々ここを訪れ、静かな心安らぐひと時を過ごしたといわれています。
※(放送済み)NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」第2部・10年12月5~26日 毎日曜19:30放送(全4回)
※(放送予定)NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」第3部・11年12月毎日曜日19:30放送(全4回)



「温山荘」の名づけ親、東郷平八郎元帥の書(中)や秋山好古の書「静者安」(下)が掲げられている主屋大広間
池を中心に主屋・茶室・浜座敷を回遊することができる
潮入式池泉(しおいりしきちせん)回遊庭園



 また「坂の上の雲」が放送されるに当たり、当時の加戸 守行愛媛県知事が  「琴の浦・温山荘園」へ来園、愛媛が生んだ偉人・新田長次郎氏と秋山好古陸軍大将の扁額等を熱心に見て回られました。








◎休園・
曜(祝日の場合次の平日)。生憎冬期の12月1日〜2月末日は休園となります。3月からのご来園をお待ちしています。
温山荘愛好会の会員募集中です!
問い合わせ 財団法人 琴ノ浦 温山荘園 電話073-482-0201

       一枚岩の大青石による橋

     「卯年」を象徴する大広間の欄間の「兎」
◎ 明治という時代は、「モノ」をつくると同時に「ヒト」を創った時代でもありました。人を育成することが最重要課題とされました。
 それには、国や行政だけでなく、一実業家までも莫大な私財を提供し、「人創り」こそ国を作る源である、という強い考え方がありました。 この新田長次郎氏もまた、大阪市の要請に応じて貧民地区に小学校を建設、寄付したり、のちのは郷土愛媛の求めに応じて多額の寄付を行い、大正時代終に郷里松山市に実学を学べる私立「松山高等商業学校」を創学し、現在の「松山大学」三恩人の一人に名を挙げられています。明治人の気概をここに観る想いです。



◆ 新田長次郎(温山)翁・1857(安政4)年~1936(昭和11)年

 松山大学三恩人の一人で、松山市山西の出身。20歳にして志をたて大阪に旅立ち10余年の歳月を経て日本初の動力伝動ベルトの製作に着手し、至難とされた帯革製造業の確立を始め、膠・ゼラチン、ベニヤの製造をも手がけるなど、日本産業の発展に多大な貢献をした。
 青少年を愛し学問を愛する温山翁は、高等商業学校設立の提案に賛同し、設立に際しては、「学校運営に関わらない」ことを条件に、設立資金として巨額の私財を投じ、我が国の私立高等商業学校では第3番目の設置となる松山高等商業学校(松山大学の前身)を創設した。

 本学園では「学園創設の父」としてその功績が今日に伝承されている。

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