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2013年6月24日月曜日

「上杉家・米沢藩」にみる藩政改革(名君・上杉鷹山・その1)

「信州・松代藩」に見る財政改革を成し遂げた家老・恩田杢の行った言動を,都合3回にわたって掲載てきたが、それ以上に「名君」の誉れ高い「上杉・米沢藩主」上杉鷹山公のケースをみて見よう!

信州「松代藩」の場合は、財政改革は家老の恩田杢によるが、上杉「米沢藩」の場合は藩主自らによる改革で、それも、話を展開するに当たって、その元になる「上杉家」の石高の変遷を見てみよう!

そこに、大きな原因が内在していたからである。すなわち、石高の大きな減石に対しても、家臣のリストラを行わなかったことにある。大きな別途収入があれば別だが、そうでなければ極めて難しい局面になる。家臣を生産的なことに従事させられれば話が変わってくるのだが・・・!

そこに、上杉鷹山の登場となるが、宝暦元(1751)年、日向(宮崎県)高鍋藩主の二 男として生まれ、数え年10歳にして米沢藩主上杉重定の養子 となった。
 上杉家は関が原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康 により会津120万石から米沢30万石に減封された。さらに 3代藩主が跡継ぎを定める前に急死したため、かろうじて家名 断絶はまぬがれたものの、さらに半分の15万石に減らされて しまった。  
収入は8分の1になったのに、120万石当時の格式を踏襲 して、家臣団も出費も削減しなかったので、藩の財政はたちま ち傾いた。
年間6万両ほどの支出に対し、実際の収入はその半 分ほどしかなく、不足分は借金でまかなったため、その総額は 11万両と2年分近くに達していた。
ちょうど、現代の日本の ような深刻な財政破綻におちいっていた。  収入を増やそうと重税を課したので、逃亡する領民も多く、 かつての13万人が、重定の代には10万人程度に減少してい た。武士達も困窮のあまり「借りたるものを返さず、買いたる 物も価を償わず、廉恥を欠き信義を失い」という状態に陥って いた。


減石に加えて、国替えが行われたからで,上杉家は新しい国づくりから始めないとならなかったからである!

・「会津藩」上杉家の時代


 
慶長三(1598)年,
越後春日山から上杉景勝が入封した。領地は蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた120万石であった。

 景勝は戦国時代に「軍神」の異名をとった上杉謙信の養子(実は甥、生母が謙信の姉・仙桃院)である。

 しかし入封してから間もない8月18日に秀吉が死去し、次の覇権を狙って徳川家康が台頭する。
慶長三(1598)年、
 これに対抗しようと豊臣家五奉行の石田三成は上杉家の家老である直江兼続に接近し、直江は景勝と慶長4年(1599年)8月に会津に帰国すると、領内の山道を開き、武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備増強に出た。

景勝・兼続主従は慶長5年(1600年)2月から若松城に代わる新たな城として、若松の北西およそ3キロの地点に位置する神指村に神指城の築城を開始した。

 しかしこの軍備増強は隣国・越後の堀秀治や出羽の最上義光らにより家康に報告され、また上杉家中でも和平を唱える藤田信吉が出奔して江戸に落ち延びたため、家康は景勝に弁明を求める使者を出したが景勝は拒絶し、家康は諸大名を集めて会津征伐を開始した。

築城は6月まで続けられたが、家康率いる討伐軍が江戸にまで来たため中止し、白河城の修築が急がれた。7月、下野小山で石田三成らの挙兵を知った家康は、次男の結城秀康や娘婿の蒲生秀行らを宇都宮城に牽制として残し、8月に西上を開始した。

 直江兼続は家康を追撃しようとしたが、上杉領の北に位置する最上義光や伊達政宗らの攻勢もあって追撃は断念した。

 9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍は壊滅したため、家康ら東軍の圧勝に終わった。
景勝は11月に家康と和睦するために重臣の本庄繁長を上洛させて謝罪させ、自らも慶長6年(1601年)8月8日に結城秀康に伴われて伏見城において家康に謝罪した結果、8月17日に家康は上杉家の存続を許したが、会津など90万石を没収して出羽「米沢」30万石へ減封した。これを契機に石高は120万石から、一気に30万石にと、4分1に激減してしまったのである。

ここから「上杉家」の苦悩が始まる。藩の石高が4分1に激減したのに対し、家臣団の人数を、石高に応じた人員数に減員しなければ、いわゆる人件費過剰で慢性赤字の状態から抜け出せない状況下に「上杉・米沢藩」は置かれることになったからである!

童門冬二氏という有名な歴史小説家がおる。彼は多くの著作をモノにしているが


童門冬二氏プロフィール:講師に歴史小説家の童門冬二氏、テーマは「歴史から学ぶリーダーの資質」でした。歴史の内容をわかりやすく興味がもてるようにお話くださった童門氏は、80歳!
その人柄と雰囲気に参加者たちは魅了され、『もう一度聞いてみたい』『「恕じょの心」が印象に残った』という感想が多くありました。
本名太田久行。1927年(昭和2年)東京に生まれる。東京都目黒区役所を振り出しに、知事秘書、広報室長、企画調整局長、政策室長等を歴任して1979年に退職。作家活動に入る。

 第43回芥川賞候補。主な著書に「小説上杉鷹山(上・下)」「青春児-小説伊藤博文(上・下)など多数ある。組織や人間を歴史と現代の二つの側面から独特の視点で描く手法が高く評価され、多くのファンを獲得している。日常生活で求めたモチーフ(組織と人間、そしてその永久改革)を作品でも追求し、特に歴史の中から現代に通ずるものを好んで執筆する。時代小説の第一人者である。日本文芸家協会・日本推理作家協会会員。


 彼の著作を数冊所蔵している中に「小説・上杉鷹山」はもちろんだが、09年NHK大河ドラマ化された上杉景勝の参謀・直江兼続を描いた「参謀力」直江兼続の知略という本があり、その帯には「乱世を生き抜く組織経営術・09年NHK大河ドラマの主人公・直江兼続の参謀哲学。
その本の終わり方に、豊臣秀頼方に味方し,関ヶ原の戦で敗北し、その結果、取り潰しをを免れたものの,石高120万石が30万石に減石され、上杉米沢藩へと国替えを余儀なくされた上杉家のことが時系列に著されている。
この中身は、次回に彼の小説の中で紹介することにして、先を急ごう!


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かつて、上杉鷹山(うえすぎようざん)は、J・F・ケネディ元アメリカ大統領やビル・クリントン元大統領に「もっとも尊敬する日本人政治家」と言われた江戸時代の米沢藩主(現:山形県米沢市)です。誰もが知ってる「なせば成る 為さねば成らぬ何事も」。この名言が生まれた背景、上杉鷹山公の素晴らしさを紹介しましょう!

上杉鷹山とは?

本サイトで取り上げる、「上杉鷹山」とは一体何者なんでしょう? ・アメリカ元大統領が尊敬する日本人政治家。「なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも」の名言を残し、米沢藩の窮地を立て直した。・現代にも通じる政治手腕を発揮し、・今なお山形県米沢市民の心に深く息づいている。
ざっと羅列すると以上のような江戸時代中期の米沢藩主です。
わたしは、かつて,勤めていた会社の社長から恩田杢(『日暮硯』)の話と同じく話を聞き、上杉鷹山の人間性の深さ、現代に通じるトップとしての姿勢に共感し、感銘を受けたことを明確に憶えています。

たまたまご覧いただいた皆様に対し、上杉鷹山という優れた大先輩が成し遂げた事を本サイトで少しでもお伝えできれば喜びです。
  
上杉鷹山の名言のひとつ!
なせば為る 成さねば為らぬ 何事も」この言葉はあまりにも有名ですよね!

以前から、この言葉は知っていましたが、実は続きがあって、「成らぬは人の なさぬなりけり
で完結です。

この言葉の意味は、【やろうと思えば何でもできます。できないのはやろうと思わないからです。
やろうとすることは他人のためではなく、自分のためになるのです。
】という深い意味合いが含まれています。


最近では、損得勘定だけで行動する方が多いですが、上杉鷹山の言葉をもう一度じっくり考えたいところですね。
 

上杉鷹山のバックグラウンド(思想的背景)

上杉鷹山は、江戸時代中期に米沢藩主(現在:山形県米沢市)として活躍し、
その業績の素晴らしさから、今でも米沢市民に親しまれている素晴らしい藩主です。

逸話ですが、私の知人が米沢旅行をしている際、上杉鷹山の話をしていると・・・
上杉鷹山公よ!ちゃんと公(こう)をつけなさいね!あなた」と、見知らぬおばちゃんに怒られたそうです!

上杉鷹山は、今でも米沢市民に親しまれ、敬われているという証拠ですね。
何がそこまで凄いのかは、このサイトをくまなく読んでいただければ分かるように作ってます。
先走って話してしまいますと、「ものの考え方」が一貫してぶれなかったことが、一番の要因だと思います。戦国武将の勇猛さも魅力的ですが、上杉鷹山の政治家としての器の大きさも十分惹かれます!
 

上杉鷹山は米沢藩生まれじゃない!?

上杉鷹山は、米沢藩生まれではありません。
非常に有名な戦国武将「伊達政宗」は米沢生まれなんですけれど。

上杉鷹山は、寛延4年(1751年)7月20日に、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として、高鍋藩江戸屋敷で生まれたのです。高鍋藩とは、今の宮崎県高鍋町周辺を治めていた藩で、上杉鷹山が生まれた頃は2万7千石の小藩でした。

今の宮崎県にある藩主の次男と、米沢藩。一見なんの関連もないように思えますが、上杉鷹山の祖母が当時の米沢藩主である上杉重定と「従兄弟」の関係にあったのです。

そういったつながりが元で、上杉鷹山が9歳の時、祖母の推薦により、跡継ぎのいなかった米沢藩主、上杉重定の養子に内定したことが、高鍋藩主の次男が米沢藩主になった理由です。

以下次回に続く・・・!

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