富士山頂に満月ピタリ 山梨・山中湖でパール富士
7月も最終日を迎えました。そこで 念願がかない世界遺産の登録された「富士山」であるが満月が重なる「パール富士」が観測されることは珍しい。年に一度あるかどうかというくらい。そこで自然の美として「パール富士」を捉えた画像をお借りしてきた。出所は朝日新聞がとらえた約1週間前の23日未明である。
富士山頂で満月が一瞬輝いた=23日午前4時2分、30秒露光、
山梨県山中湖村平野から、菊地雅敏撮影
山梨県山中湖村平野から、菊地雅敏撮影
富士山頂と山中湖面に、一瞬、満月が輝いた=23日午前4時2分、
30秒露光、山梨県山中湖村平野から、菊地雅敏撮影
30秒露光、山梨県山中湖村平野から、菊地雅敏撮影
富士山頂に満月が重なる「パール富士」が、23日未明、山梨県山中湖村から観測された。富士山頂に太陽がかかる様子が「ダイヤモンド富士」と呼ばれるのに対し、満月がかかる様子は真珠にたとえられ、「パール富士」と言われる。
山中湖の北岸には、パール富士を収めようと、前日夕方からアマチュアカメラマンが集まり始めた。23日午前3時半ごろには一時、雨も降ったが、午前4時すぎ、雲の隙間から数十秒間月が姿を現すと、「出た」と声が上がり、カメラマンが西南西の方角にある富士山頂に向かって一斉にシャッターを切った。
山梨県立科学館で天文を担当する菊田義博さん(37)によると、パール富士が山中湖村から見られるのは年に1度ほどという。菊田さんは「ダイヤモンド富士のような派手さはないが、月独特の神秘さがある」と話していた。
・世界遺産「富士山」:http://www.fujisan-3776.jp/index.html
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(人工の美)
(天下逸品)自然が編み出す 心洗う形
日本人以上に自然をこよなく愛したドイツ人建築家ブルーノ・タウトの世界をご覧になり、自然との対比をお考え下さい。
ブルーノ・タウトが暮らした洗心亭。ここで方丈記のドイツ語訳
もした=群馬県高崎市
もした=群馬県高崎市
前島さんが制作したタウトのデザインによる竹皮編、編み物籠(左)と
ワインホルダー(大西写す)
ワインホルダー(大西写す)
ブルーノ・タウト(左)と達磨のパネル=群馬県高崎市の少林山達磨寺、
西田裕樹撮影
西田裕樹撮影
■ブルーノ・タウトの世界(群馬・高崎市)
群馬県高崎市郊外の少林山達磨(だるま)寺。木々に囲まれた境内の細道を行くと、小さな一軒家がある。「洗心亭(せんしんてい)」という。6畳と4畳半の2間に囲炉裏と小さな押し入れ、縁側だけの簡素なつくりだ。
「えもいわれず心をなごませる。この美しい風光にすっかり心を奪われた」。1934年8月から2年2カ月、ここに住んだドイツ人建築家ブルーノ・タウトは、畳の間から望む景色を日記につづった。
ドイツ時代から日本に関心が深く、日本人の質素な生活、仏教的な無常観をつづった方丈記や徒然草などの古典を愛読した。達磨寺の廣瀬正史(せいし)住職は語る。
「タウトにとって、洗心亭は鴨長明(かものちょうめい)が方丈記を執筆した山中の方丈のイメージと重なり、文化や自然を思惟(しゆい)する場所だったのでしょう」
洗心亭は創作の場でもあった。ナチスに追われ、伴侶と日本に亡命したタウトを、実業家の井上房一郎(ふさいちろう)が高崎に招いた。地元の工芸品で産業振興を図ろうとデザインを委嘱。タウトにとって工芸品は専門外だったが、600以上の作品を世に送り出した。
今もタウトを慕い、洗心亭を訪れる人たちがいる。高崎市の前島美江(よしえ)さん(58)もその一人。タウトが見いだした竹皮編(たけかわあみ)を受け継ぐ唯一の工芸家だ。
東京で造園の仕事をしていた30歳のころ、雑誌の特集でタウトと竹皮編の関わりを知った。故郷で途絶えた伝統工芸の復活に携わりたいと思い立ち、特集の筆者やタウトの下で働いた人たちを訪ねた。
「日本には歴史ある素材がある。ヨーロッパで流行するパイプ椅子のような金属を使ってはいけない」。タウトが高崎に残したことばだ。
もともと、竹皮は草履や笠に使われていた。その技を応用し、西洋風のモダンな工芸品をデザインした。パン皿、ワインホルダー、果物の盛り籠……。アイデアをスケッチしては職人に託した。
前島さんはタウトが残したスケッチをもとに、竹皮編を作り始めた。88年に工房を開き、年数百点の工芸品を作る。
東日本大震災のあと、竹林の保全や整備に加わる人が増え、竹皮編にも関心が広がり各地の講演やワークショップに招かれている。再びタウトの時代が来たと感じる。
「タウトは人間の暮らしと自然の調和を何より大切にしました。その美の感性が、再発見されつつあるのではないでしょうか」
〈アクセス〉 少林山達磨寺はJR高崎駅からバスで20分。前島さんの工房「西上州竹皮編でんえもん」は同30分。
文・大西元博 :写真・西田裕樹
■メモ
ブルーノ・タウト(1880~1938)は労働者の生活改善に配慮した集合住宅を設計するなど、弱者の味方だった。33年に日本の建築家グループからの招待を機に亡命。36年にトルコ政府に招かれ、本来の建築設計の分野で活躍したが、38年に客死した。
■お茶の水女子大学名誉教授 田中辰明さん(72)
ブルーノ・タウトが設計したドイツの集合住宅は世界文化遺産になりました。歴史的な建築家ですが、日本での役割は工芸品のデザイン。専門外でしたが、発想の着眼点とデザインは優れていました。実用的で無駄がなく、質素な美しさがあります。
彼の建築設計は自然との調和が特徴で、日本でも自然の要素を採り入れようとしました。絶賛した桂離宮の塀に竹が使われています。タウトの日本の代表的な作品にも、竹を傘の骨組みにして和紙をはった電気スタンドがあります。竹皮編のデザインも、パン籠やワインホルダーなど生活に関わるものが多い。身近にある自然から、こんなにすてきなものが作れるんだよ、と日本人に伝えたかったのではないでしょうか。
群馬県高崎市郊外の少林山達磨(だるま)寺。木々に囲まれた境内の細道を行くと、小さな一軒家がある。「洗心亭(せんしんてい)」という。6畳と4畳半の2間に囲炉裏と小さな押し入れ、縁側だけの簡素なつくりだ。
「えもいわれず心をなごませる。この美しい風光にすっかり心を奪われた」。1934年8月から2年2カ月、ここに住んだドイツ人建築家ブルーノ・タウトは、畳の間から望む景色を日記につづった。
ドイツ時代から日本に関心が深く、日本人の質素な生活、仏教的な無常観をつづった方丈記や徒然草などの古典を愛読した。達磨寺の廣瀬正史(せいし)住職は語る。
「タウトにとって、洗心亭は鴨長明(かものちょうめい)が方丈記を執筆した山中の方丈のイメージと重なり、文化や自然を思惟(しゆい)する場所だったのでしょう」
洗心亭は創作の場でもあった。ナチスに追われ、伴侶と日本に亡命したタウトを、実業家の井上房一郎(ふさいちろう)が高崎に招いた。地元の工芸品で産業振興を図ろうとデザインを委嘱。タウトにとって工芸品は専門外だったが、600以上の作品を世に送り出した。
今もタウトを慕い、洗心亭を訪れる人たちがいる。高崎市の前島美江(よしえ)さん(58)もその一人。タウトが見いだした竹皮編(たけかわあみ)を受け継ぐ唯一の工芸家だ。
東京で造園の仕事をしていた30歳のころ、雑誌の特集でタウトと竹皮編の関わりを知った。故郷で途絶えた伝統工芸の復活に携わりたいと思い立ち、特集の筆者やタウトの下で働いた人たちを訪ねた。
「日本には歴史ある素材がある。ヨーロッパで流行するパイプ椅子のような金属を使ってはいけない」。タウトが高崎に残したことばだ。
もともと、竹皮は草履や笠に使われていた。その技を応用し、西洋風のモダンな工芸品をデザインした。パン皿、ワインホルダー、果物の盛り籠……。アイデアをスケッチしては職人に託した。
前島さんはタウトが残したスケッチをもとに、竹皮編を作り始めた。88年に工房を開き、年数百点の工芸品を作る。
東日本大震災のあと、竹林の保全や整備に加わる人が増え、竹皮編にも関心が広がり各地の講演やワークショップに招かれている。再びタウトの時代が来たと感じる。
「タウトは人間の暮らしと自然の調和を何より大切にしました。その美の感性が、再発見されつつあるのではないでしょうか」
〈アクセス〉 少林山達磨寺はJR高崎駅からバスで20分。前島さんの工房「西上州竹皮編でんえもん」は同30分。
文・大西元博 :写真・西田裕樹
■メモ
ブルーノ・タウト(1880~1938)は労働者の生活改善に配慮した集合住宅を設計するなど、弱者の味方だった。33年に日本の建築家グループからの招待を機に亡命。36年にトルコ政府に招かれ、本来の建築設計の分野で活躍したが、38年に客死した。
■お茶の水女子大学名誉教授 田中辰明さん(72)
ブルーノ・タウトが設計したドイツの集合住宅は世界文化遺産になりました。歴史的な建築家ですが、日本での役割は工芸品のデザイン。専門外でしたが、発想の着眼点とデザインは優れていました。実用的で無駄がなく、質素な美しさがあります。
彼の建築設計は自然との調和が特徴で、日本でも自然の要素を採り入れようとしました。絶賛した桂離宮の塀に竹が使われています。タウトの日本の代表的な作品にも、竹を傘の骨組みにして和紙をはった電気スタンドがあります。竹皮編のデザインも、パン籠やワインホルダーなど生活に関わるものが多い。身近にある自然から、こんなにすてきなものが作れるんだよ、と日本人に伝えたかったのではないでしょうか。