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2013年7月31日水曜日

自然の美・富士山頂に満月がピタリと人工の美・ブルーノ・タウトの世界!

富士山頂に満月ピタリ 山梨・山中湖でパール富士

  7月も最終日を迎えました。そこで 念願がかない世界遺産の登録された「富士山」であるが満月が重なる「パール富士」が観測されることは珍しい。年に一度あるかどうかというくらい。そこで自然の美として「パール富士」を捉えた画像をお借りしてきた。出所は朝日新聞がとらえた約1週間前の23日未明である。

写真・図版
富士山頂で満月が一瞬輝いた=23日午前4時2分、30秒露光、
山梨県山中湖村平野から、菊地雅敏撮影
写真・図版
富士山頂と山中湖面に、一瞬、満月が輝いた=23日午前4時2分、
30秒露光、山梨県山中湖村平野から、菊地雅敏撮影
 富士山頂に満月が重なる「パール富士」が、23日未明、山梨県山中湖村から観測された。富士山頂に太陽がかかる様子が「ダイヤモンド富士」と呼ばれるのに対し、満月がかかる様子は真珠にたとえられ、「パール富士」と言われる。
 山中湖の北岸には、パール富士を収めようと、前日夕方からアマチュアカメラマンが集まり始めた。23日午前3時半ごろには一時、雨も降ったが、午前4時すぎ、雲の隙間から数十秒間月が姿を現すと、「出た」と声が上がり、カメラマンが西南西の方角にある富士山頂に向かって一斉にシャッターを切った。
 山梨県立科学館で天文を担当する菊田義博さん(37)によると、パール富士が山中湖村から見られるのは年に1度ほどという。菊田さんは「ダイヤモンド富士のような派手さはないが、月独特の神秘さがある」と話していた。
 

・世界遺産「富士山」:http://www.fujisan-3776.jp/index.html

 
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(人工の美)

天下逸品)自然が編み出す 心洗う形

日本人以上に自然をこよなく愛したドイツ人建築家ブルーノ・タウトの世界をご覧になり、自然との対比をお考え下さい。

写真・図版
ブルーノ・タウトが暮らした洗心亭。ここで方丈記のドイツ語訳
もした=群馬県高崎市
写真・図版
前島さんが制作したタウトのデザインによる竹皮編、編み物籠(左)と
ワインホルダー(大西写す)
写真・図版
ブルーノ・タウト(左)と達磨のパネル=群馬県高崎市の少林山達磨寺、
西田裕樹撮影
写真・図版
  

ブルーノ・タウトの世界(群馬・高崎市)
 群馬県高崎市郊外の少林山達磨(だるま)寺。木々に囲まれた境内の細道を行くと、小さな一軒家がある。「洗心亭(せんしんてい)」という。6畳と4畳半の2間に囲炉裏と小さな押し入れ、縁側だけの簡素なつくりだ。
 

 「えもいわれず心をなごませる。この美しい風光にすっかり心を奪われた」。1934年8月から2年2カ月、ここに住んだドイツ人建築家ブルーノ・タウトは、畳の間から望む景色を日記につづった。
 ドイツ時代から日本に関心が深く、日本人の質素な生活、仏教的な無常観をつづった方丈記や徒然草などの古典を愛読した。達磨寺の廣瀬正史(せいし)住職は語る。
 

 「タウトにとって、洗心亭は鴨長明(かものちょうめい)が方丈記を執筆した山中の方丈のイメージと重なり、文化や自然を思惟(しゆい)する場所だったのでしょう」
 洗心亭は創作の場でもあった。ナチスに追われ、伴侶と日本に亡命したタウトを、実業家の井上房一郎(ふさいちろう)が高崎に招いた。地元の工芸品で産業振興を図ろうとデザインを委嘱。タウトにとって工芸品は専門外だったが、600以上の作品を世に送り出した。
 

 今もタウトを慕い、洗心亭を訪れる人たちがいる。高崎市の前島美江(よしえ)さん(58)もその一人。タウトが見いだした竹皮編(たけかわあみ)を受け継ぐ唯一の工芸家だ。
 東京で造園の仕事をしていた30歳のころ、雑誌の特集でタウトと竹皮編の関わりを知った。故郷で途絶えた伝統工芸の復活に携わりたいと思い立ち、特集の筆者やタウトの下で働いた人たちを訪ねた。
 

 「日本には歴史ある素材がある。ヨーロッパで流行するパイプ椅子のような金属を使ってはいけない」。タウトが高崎に残したことばだ。
 もともと、竹皮は草履や笠に使われていた。その技を応用し、西洋風のモダンな工芸品をデザインした。パン皿、ワインホルダー、果物の盛り籠……。アイデアをスケッチしては職人に託した。
 

 前島さんはタウトが残したスケッチをもとに、竹皮編を作り始めた。88年に工房を開き、年数百点の工芸品を作る。
 

 東日本大震災のあと、竹林の保全や整備に加わる人が増え、竹皮編にも関心が広がり各地の講演やワークショップに招かれている。再びタウトの時代が来たと感じる。
 「タウトは人間の暮らしと自然の調和を何より大切にしました。その美の感性が、再発見されつつあるのではないでしょうか」
 

 〈アクセス〉 少林山達磨寺はJR高崎駅からバスで20分。前島さんの工房「西上州竹皮編でんえもん」は同30分。
文・大西元博 :写真・西田裕樹
■メモ
 ブルーノ・タウト1880~1938)は労働者の生活改善に配慮した集合住宅を設計するなど、弱者の味方だった。33年に日本の建築家グループからの招待を機に亡命。36年にトルコ政府に招かれ、本来の建築設計の分野で活躍したが、38年に客死した。
■お茶の水女子大学名誉教授 田中辰明さん(72)
 ブルーノ・タウトが設計したドイツの集合住宅は世界文化遺産になりました。歴史的な建築家ですが、日本での役割は工芸品のデザイン。専門外でしたが、発想の着眼点とデザインは優れていました。実用的で無駄がなく、質素な美しさがあります。
 彼の建築設計は自然との調和が特徴で、日本でも自然の要素を採り入れようとしました。絶賛した桂離宮の塀に竹が使われています。タウトの日本の代表的な作品にも、竹を傘の骨組みにして和紙をはった電気スタンドがあります。竹皮編のデザインも、パン籠やワインホルダーなど生活に関わるものが多い。身近にある自然から、こんなにすてきなものが作れるんだよ、と日本人に伝えたかったのではないでしょうか。
 

2013年7月30日火曜日

8月・地元海南の「まつり」いろいろ!

元・海南・紀美野町の夏の「まつり」


ポスターを掲げる各イベントの代表者たち

(総合編) 8月に入っても「まつり」はつづく!


まつり開催日時
・「かいなん夢風鈴まつり」8月1日(木曜日)~15日(木曜日)
※駅前イベント 8月3日(土曜日) 15時~20時

・「ふるさと海南まつり」
8月13日(火曜日) 15時~21時

・「下駄市」
8月14日(水曜日) 18時~22時

・「きみの夏祭り」
8月15日(木曜日) 16時~21時
・「下津ふるさとまつり」8月16日(金曜日) 18時~21時
※プレイベント 17時20分~

問い合わせ 海南市産業振興課 電話073-483‐8460

 (各部編)

    ・「夢・風鈴まつり」(8/1~15スタンプラリー・8/3イベント)



・「風鈴まつり」発祥の神社「春日神社の風鈴」

春日神社は十数年前から全国から短歌・俳句を募集し、風鈴の短冊に歌を標して
選考入賞を行う神社として知られていましたが、これが「夢・風鈴まつり」に取り入れられ
スタンプラリー方式を採用して、イベントの規模拡大に結び付け成功した訳ですが、その発祥となった神社で、この神社は毎年独自に短歌・俳句の全国募集・選考・表彰を行っています。

 



                     ・「ふるさと海南まつり」8/13





                             ・「下駄市」(海南市黒江川端通り)(8/14)

駄市と呼ばれ、 黒江地区・船尾地区の川端通りで 毎年8月14日に実施される。
下駄市の起こりは江戸時代末期と古い。地元周辺に定着しており、多くの人が楽しみに待つ「夏の風物詩」になっている。

露天商、地場産業の出店、特別イベントの開催を、毎年8月14日夜の6時から10時までの4時間、通称黒江・船尾地区の川端通りで同時進行する。  長らく途絶えていた下駄の販売出店も数年前より再開した。
・特別イベントの主なものは次の通り。
 
 「ゆかた姿コンテスト;ゆかたには下駄がつきもの」「歌謡ショー」「南中ソーラン」「黒江つつてん  踊り;黒江の郷土芸能」「和太鼓フェスティバル;(平成23年度より)」。

下駄市が始まったのは、江戸時代末期からだと言われているが、 当時、黒江地区はすでに「黒江塗り」として漆器作りが盛んであった。漆器作りは分業制で、「生地」「下塗り」「中塗り」「上塗り」「蒔絵」「沈金」などの工程があり、黒江の町は2,000人くらいの人が働く、1つの大きな工場のようだった。当時はお盆と正月くらいしか休みはなく、お盆の藪入(8月16日)に雇い主が従業員を帰省させるときに、新しい下駄を履かせたり、またお土産に持たせたりした。

下駄は日方(商店街)まで買いに出向いていたが、需要が大きいため、お盆のこの時期、日方の商人が黒江に店を出すようになった。人がたくさん集まるので、露天の店も出て賑やかになっていった。

衣服が、和装から洋装に変わるとともに、下駄のニーズがなくなっていった。それでも、昭和30年~40年代まではまだ下駄を履く人はいたが、以降次第に下駄を売る店もなくなり、下駄市は露天商のみの祭りになっていった。
それ以降、「下駄市なのに、下駄がない」と言われてきたが、伝統のある下駄市に再び下駄をおこうと、6~7年前から「NPO法人くろえ」が主体となっていろいろな取り組みを始めている。
数年前より販売出店を再開した、下駄の売れ行きも好調である。


 
 
 
 
 

 ・第8回きみの夏祭り(8/15・紀美野町)

 
幻想的な1500発の花火が夜空を彩る和歌山県紀美野町の夏祭りの夜を飾る花火大会。幻想的な1500発の花火を間近で見られる上に、音が山々に反響し、迫力を増す。見どころはスターマインや尺花園だ。また、盆踊りやステージイベントなどの催しも行われるほか、50以上の夜店も出店予定で、祭りに華を添える。

第8回きみの夏祭り
 

開催情報
 
・開催日時:2013年8/15(木)20:30〜21:00
荒天の場合
小雨決行(荒天時は2013年8/16日(金)に延期)
・開催場所:木の温もり広場
 

・「下津ふるさとまつり(海南市)」


8/16(金)18:00~21:00
海南市下津地区で行われる夏祭り。盆踊りやキャラクターショーなどが行われます。
場所・交通: 下津小学校 JRきのくに線下津駅から徒歩約10分
問い合わせふるさと祭り下津実行委員会 073(492)1212
         
 
・2012年の「下津ふるさとまつり」海南夏祭りの締めくくりまちづくり海南提供)
 

  
 

 

               和歌山のおばちゃんこと 枝曾丸 師匠 が総合司会
 

 

          
                     ik_20また来年お会いしましょうik_83


「海南の熱い夏が始まり、そして暑い夏が終わります。みなさんには一陣の風!」

 

2013年7月29日月曜日

躍動の街へ よさこい 10年目「おどるんや」7月28日開幕

 地元和歌山市やお隣りの海南市では、このところ「街おこし」に結び付くイベントが盛んになり、街の雰囲気もそれなりに活性化されつつあるよう思われます。 

 

 

これらの中にあって、昨28日は和歌山市では「港まつり」&「和歌山マリーナシティー・スターライトイリュージョン」の花火の協演、それに今年が10年目となる「おどるんや~紀州よさこい」がマリーナシティーで昼間から踊り始めた。10年前に町を盛り上げようと市民手作りで始められたイベントだそうだがここまで成長をとげようとは・・・継続は力なり、を改めて感じた。

 そしてマリーナシティーのスターライトイリュージョン、「おどるんや~紀州よさこい」を盛り立てようと、いつもとは違ったスケールで圧倒的な打上方、わたしの家まで爆音が響いてきた!あとで知ったのだが、花火の打上にあわせて、おどりも併行して行われたそうだ!

   ◆                  ◆                ◆

 この日海南市では、本日午前9時より黒江うるわし館駐車場にて「海南ロータリークラブ創立60周年記念事業」として【紀州漆器黒江塗おもてなしベン25客贈呈式】が行われ、目録が小林会長から神出海南市長に手渡されました

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 その後このベンチは有志の手によって組み立てられ、市内の要所要所に据え置かれ、市民や観光客の小休憩に利用されるコトとなり、黒江塗りに仕上げられたベンチは憩いの場を提供してくれると思います。海南市も8月に入ると「夢・風鈴まつり」やいろんなイベントが企画されています。 

 お互い刺激し合って「街の活性化」を目指し、知恵と汗と努力を絞って下さい。

 このベンチのことは海南のイベント紹介のなかで採り上げたく、まずは「おどるんや~紀州よさこい」を続けることといたします。          




”躍動の街へ よさこい 10年目”

「おどるんや」7月28日開幕・


8月3.4日とつづく!                               

 おどるんや~紀州よさこい祭り」が7月28日(のマリーナシティ会場を皮切りに、8月3日(土)、8月4日(に和歌山城とその周辺で開かれる。

和歌山を盛り上げようと市民手づくりで始まった祭りは10年目を迎えた。

主催するNPO紀州お祭りプロジェクトの西平都紀子会長は「当初は『できない』『無理だ』と言われましたが、皆で力を合わせればできるんだと証明できました。地域に必要だと思ってもらえる祭りになるよう、11年目に向けて盛り上げていきたい」と話している。

花火とコラボや企画連
 個人の寄付や企業の広告など100%民間資金で祭りを開く同プロジェクト。今年はマリーナシティ、ぶらくり丁、けやき大通り、和歌山城など3日間で10会場、過去最多の約100チーム、4000人の踊り子が参加する。
 

 10年目を迎えた祭りに花を添えるのが企画連。複数のチームから有志141人が集う「一廻(いちえ)」や、男性のみで結成した「紀の国男参S(おっさんず)」、熊野古道の世界遺産登録10年目を祝う紀南チームによる「熊野古道ハレヤでいこら!」などが出場する。
 

 また、「第1回から念願だった」と同プロジェクトメンバーが口をそろえる、花火とのコラボレーションが実現。

28日午後8時から、有志の踊り子約40人がマリーナシティの舞台で夜空を彩る花火を背に踊る。参加する向井章さんは「総踊り曲の『YAPPA紀州』をアレンジし、花火をイメージした踊りで魅せます」と声を弾ませる。
 

 新たな企画が立ち上がる一方、今年で最後を迎えるのが各チームの旗振り師が一堂に会する「旗衆(きしゅう)大乱舞」。

大旗の迫力ある一斉挙旗や、旗を手に踊りを披露する小旗は毎年楽しみにしている人が多いが、今年でファイナル。小旗をとりまとめる藤本武道さんは「裏方の旗師にとって年に一度の晴れ舞台。今まで以上のものを見せ、伝説に残る瞬間にしたい」。

3日午後9時48分から砂の丸広場で、33チーム、68本の旗が一つの舞台をつくり上げる。
 このほか、市内11小学校の児童約200人が踊るキッズ連や、地元飲食店が自慢の料理を砂の丸で販売する「よっちゃげて旬店街」、様々なジャンルの踊りを体験できる西の丸の「おどりゃんせ広場」など見どころ満載だ。

 杉谷和昭実行委員長は「来てくれた人たちの記憶に残る祭りになれば。次の20年目に向け、悩みや疲れを発散し、多くの人の活力のもとになる祭りにしていきたい」と話している。
 

 ガイドブックを和歌山市内の郵便局やぶらくり丁の同プロジェクト事務局で無料配布中。同プロジェクト(073・426・4424)。3日は紀州おどりと同日開催。
ニュース和歌山2013年7月27日号掲載

                

 
 

(トピックス)藤子不二雄A さん、 大腸がんで入院していた、おまけに臨死体験 「悪夢見た」

藤子不二雄A 氏、 大腸がんで入院していた 「悪夢見た」・07月27日


東京都内で開いたトークショーで大腸がんでの入院生活について明かした藤子不二雄Aさん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

東京都内で開いたトークショーで大腸がんでの入院生活について明かした藤子不二雄Aさん
 
 マンガ家の藤子不二雄Aさん(79)が27日、東京都内で行ったトークショーで大腸がんでの入院生活について語った。昨年末に体にイボ状のものができたため、医師の勧めで検査を受けたところ、大腸にがんが見つかったといい、「僕は本当に死のうと思った。ゴルフも何にもできなくなるしね。仕事はどうでもいいんだけど……」と冗談を交えながら状況を説明。

東京都内の病院に入院し、4時間半の手術で無事がんを除去できたというが、その後、出血し集中治療室(ICU)に入った際には、トキワ荘の仲間たちが手招きする夢を見たと“臨死体験”も明かした。

ノビタとドラえもんでお馴染みの・・・藤子不二雄Aさん


 

 「ICUに4日間入ってうなされたんです。いろんな悪夢を見た。2本立てでね、大勢のドイツ人にウインナーを食えと迫られたんですよ」と笑わせつつ、「第2話は、夢の中で僕が田舎をさまよってる。朽ち果てた家があって、それがトキワ荘だった。2階の窓が開いて、石森(石ノ森章太郎)だったり赤塚(不二夫)だったり、手塚(治虫)先生もいるんですよ。手を振って『こっち来い』って呼んでて、懐かしい感じがして、行きそうになる夢まで見た。心に残っていた夢で、僕もそろそろそういう年になったし、呼ばれてるのかなあとひしひしと感じましたね」としみじみと語った。

 だが、経過は順調で、「なんと2週間で退院しちゃったんですよ。先生に聞いたら、『異常な回復力だ』って言われてね、非常にうれしかったのを覚えてます」と笑顔を見せた。
 

 この日のイベントは、藤子不二雄Aさんと藤子・F・不二雄さんのコンビ「藤子不二雄」の自伝的マンガ「まんが道」の続編で、完結編となる「愛…しりそめし頃に…」のコミックス12巻(小学館)の発売を記念したトークショー&サイン会。

  同作は今年4月に、「まんが道」から数えて43年の歴史に幕を下ろしたが、「僕も高齢になってそろそろ死が近いじじいになったんで、未完のまんま終わったらいけないんじゃないかと思って、非常に残念だけど、終わらせたいと。一つの区切りを付ける意味で完結させたんですね」と説明した。
 

 さらに、今後に創作活動について、「『愛…しりそめし頃に…』をやめて2カ月くらいたって、不思議なほっとした気持ちと寂しい気持ちが相まって、新しい作品……という気持ちになってない。こういう年になって、日本のシニアに元気になってもらえるようなマンガが描けたらと思っている。タイトルだけは決まってるんですけど、まったく白紙です」と語っていた。

この貴重な臨死体験の話、ぜひとも本にして出版されたらなあ~!体験が勿体なさすぎる!
 

ドラえもん、一日郵便局長に上機嫌「緊張してるけど、頑張ります!」(追加)

 

 

オリコン8月12日(月)

画像:1日郵便局長に就任したドラえもんと東京中央郵便局局長・江副貴雄氏 (C)ORICON NewS inc.
1日郵便局長に就任したドラえもんと東京中央郵便局局長・江副貴雄氏 
 人気キャラクターのドラえもんが12日、都内で行われた『藤子・F・不二雄 生誕80周年記念イベント at KITTE』のオープニングセレモニーに登場。東京中央郵便局局長・江副貴雄氏から一日郵便局長に任命されたドラえもんは「とても緊張してるけど、頑張ります!」と気合十分。タスキを掛け「手紙ってもらうとうれしいよね。僕ものび太くんに手紙出してみようかな〜」とノリノリだった。

 同イベントは、きょう12日から9月1日まで、日本郵便が初めて手がける商業施設・KITTEで、藤子氏の名言や漫画『ドラえもん』の誕生秘話、『パーマン』『キテレツ大百科』などの名台詞を紹介するもの。吹き抜けの大空間では、人気キャラクター80枚のグラフィックパネルで作る空中アートが会場を彩っている。

 当日は、同イベントで展示される郵便ポストの形をしたひみつ道具『郵便ロケット』を持ったドラえもんが初お披露目されると、集まったファンから歓声があがっていた。
 
 

2013年7月28日日曜日

ひと頃の「若鷹・石川遼」はどうしたの?

石川遼と松山“大きな差” 来季の米ツアーシード権は松山優位

日本で羽ばたいた「若鷹」石川 遼が米国で羽ばたけないのは何故?今では同い年の松山英樹に大きな遅れをとってしまった、果たして来期の米国のシード権は確保出来るの?

遼と松山“大きな差” 来季の米ツアーシード権は松山優位
 
6月のツアー選手権で石川と松山は同組でラウンド。舞台をカナダに移しての勝負はいかに?

 米男子ゴルフツアー、「カナダ・オープン」(カナダ・グレンアビーGC、7253ヤード、パー72)は25日、開幕した。全英オープンで6位タイに入った松山英樹(21)と石川遼(21)も同じ舞台に立った。国内の「日本ゴルフツアー選手権宍戸」以来、今季2度目の顔合わせだが、いまや2人の間には“大きな差”が…。 

 メジャー2戦連続トップ10入りを果たした松山は、来季からの米ツアー挑戦に向けて、「できれば8月の海外遠征残り3試合で何とかしたい」と話している。米ツアー本格参戦初年度の石川も思いは同じだが、数字(7月22日時点)は“松山優位”を裏付ける。

来季のシード権】
 FedexCupポイントが基本だ。125位以内が来季のシード権を獲得できる。松山は176Pで165位相当。石川は212Pで153位。ここでは石川が有利に思えるが…。
 
 
【獲得賞金での可能性を探ると…】
 ツアー制度移行の今季に限り“獲得賞金125位以内”でもシード権を得られる。松山は今季米ツアーにプロとして2試合の出場だが、全米オープン10位タイ、全英オープン6位タイでビッグマネー。その額は41万7907ドル(約4192万円)である。これは136位相当だ。
 一方、本格参戦した石川は19試合で予選通過は10試合、ベスト10入りはわずか1試合。32万4815ドル(約3258万円)でランク149位。この点、松山はあと一息で“圏内”が見える。
 
 
【世界ランキング】
 松山は、最新ランクで34位に上昇した。石川は全英オープンの“裏街道”「サンダーソンファームズ選手権」で予選落ちして153位のまま。そういえば、今年4月に松山がプロ転向宣言したときには、世界ランクは159位だった。石川は、同115位と上だった。結果がすべて、何とも厳しい世界である。
 
 
【今後はどうなる?】
 シード権争いはカナダ・オープンを含め残り5試合。それでも世界ランク上位の松山は「ブリヂストン招待」(8月1日開幕)、「全米プロ選手権(8月8日開幕)と高額賞金大会に出場する。「ブリヂストン招待」は予選落ちがなく、一気に来季のシード権獲得も夢ではない。
 一方の石川はこの2大会の出場権はない。“裏番組”「リノタホ・オープン」に出場する予定だが、賞金総額はブリヂストン招待の3分の1である。残りも「ウインダム選手権」(8月15日開幕)だけ。もちろん勝てば何の問題もなくシード権は転がり込むが…。
 ランク125位以下なら下部ツアーとのプレーオフに進むしかない。石川は「たとえそうなってもアメリカでサバイバルする」と決意は固い。まずは、今週のカナダが超注目だ。 

 

丸山茂樹、苦戦が続く石川遼について「正直に言わして貰うと・・・」 7月28日(日)


日米で長年プレーしてきた「マルちゃん」こと丸山茂樹選手(1969.9.12生まれ、現在まで日本10勝・米国3勝)に見解を聞くと、次のような答えが返ってきた。

(1992年プロ入りし、PGAツアーには、2000年から2008年までアメリカの「PGAツアー(USPGA)」に本格参戦。2000年2月10日~13日、ツアー参戦3戦目となるPGAツアー第6戦「ビュイック招待(Buick Invitational)」にて2位タイ(同じ2位タイにはタイガー・ウッズもいた)。2001年の参戦2年目にはPGAツアー初優勝。その後も好成績を挙げ、日本人選手として初めてPGAツアー3勝を挙げており、国際クラスの選手に成長した。 ちなみに2000年の全米オープンの予選にて、最も低いスコア記録タイの58を叩き出している。シード権 を2年連続で喪失したのを機に2009年からは再び日本に活躍の場を戻した)
                 

TBS「ジョブチューン 〜アノ職業のヒミツぶっちゃけます!」(27日放送分)では、「こんなに稼げる職業があったSP」として、プロゴルファー・丸山茂樹が出演を果たした。

「海外の選手でビックリした選手は?」と訊かれると、「日本だとあんまり考えられないんですけど、だいたいツアー選手のシード選手が125人いるんですよ。そのうちの約3分の1、45人くらいはプライベートジェットです」と答えた丸山は、自身も「7〜8年くらい乗ってた。フルフラットになるシートが8席くらい。ガルフストリームの3。ちょっと安い方。グレッグ・ノーマンっていう選手はG550っていう一番凄いのに乗ってる。70億くらい。エアロバイクも乗っけている」と語った。

プライベートジェットを乗る理由については、「“時間をお金で買う努力をやれ”って。例えば、ニューヨークで試合があって、次はロスに移動をしなくちゃいけなくなったら、普通の民間機で行くとなると2時間前に空港に入って。プライベートジェットは24時間前に電話で。タクシーと一緒なんですよ、何時に迎えに来いって」と明かした丸山。実際の移動は、「(出発の)10分前に車で空港機の横までつけて、ニューヨークから全英オープンとかに行く時は、そのままセントアンドリュースの横に空港があるんですけど、そこに降りて入国審査員が2人位来てくれて、中でくつろいでいるところでパスポートを渡して、ドンドン(と押印)と“いい成績出してな”って」と明かし、周囲を驚かせた。

また、印象に残るプレイヤーについて訊かれると、丸山は「断トツでタイガー・ウッズですよ。全盛期のタイガー・ウッズと同じ土俵に立てたのが僕の一生の宝」と言いつつも、番組MC・名倉潤から「どんな人ですか?」と訊かれれば、「もう、まんま」とキッパリ。

「イメージ通りです。綺麗な女の子がいると寄ってきて、“見ろ、見ろ”って。“BIG TITS”とかって言うんですよ。“日本語で何て言うんだ?”と言われ“大きいおっぱい”って。こっちは真剣にやってんのに」と苦笑いを浮かべた丸山は、苦戦が続く石川遼については、「正直に言わして貰うとですね、日本では通じたけど世界では通じない。日本に来たら間違いなく今でも、前に皆さんが“強い石川遼”だと言うのと同じパフォーマンスが出来ると思う。(世界は)ただ者じゃない」と答えた。

高校野球和歌山大会・箕島29年ぶりV 故尾藤氏長男“スマイル”継承就任1年目で栄冠!

箕島29年ぶりV 故尾藤氏長男“スマイル”継承就任1年目で栄冠・月28日(日)


      ”甲子園出場校のなかでも話題の一つになること間違いないし!”

画像:涙をこらえる箕島・尾藤強監督
涙をこらえる箕島・尾藤強監督
(和歌山大会決勝戦・箕島高10:1南部高)

 強監督らしさが出たのは2回だ。1死一、三塁で8番・須佐見。南部バッテリーは2度ウエストするなどスクイズを警戒した。だが、バントのそぶりがないまま、2ボール2ストライクからのスリーバントスクイズで先制。敵将の南部・井戸大志(ひろし)監督は「オヤジさんより、したたか」とその采配に舌を巻いた。緊張から普段の力を発揮しにくい場面にも、須佐見は「(監督は)ミスしてもけなさないので楽にいける」と難なくこなした。
 偉大な父と比較されることを覚悟の上で、今年3月に母校の監督に就任した。その中で「復活ではなく、新しい歴史をみんなでつくっていく」と言い続けてきた。
 
 
 ただ、「箕島特有の厳しさの中で伸び伸びとした野球で(部員の)成長を手助けできれば」と目指すスタイルは父と重なる。父のトレードマークだった「尾藤スマイル」は「意識しません。無理に笑うこともできませんし」と苦笑いするが、選手と交換日記などでコミュニケーションを欠かさず、練習中にも自然と笑みがこぼれる。中西主将が「やっぱり笑顔が多い。リラックスできる」と話すように、“血”は受け継がれている。
 
 
 小学生の頃から自然と憧れた箕島へ進んで父の薫陶を受けたが、選手時代は甲子園に手は届かなかった。指導経験もなかった中で転機が訪れたのは昨秋。OB会に要請されてコーチで戻り、その時点で将来の監督就任も既定路線となった。土木建設業者で働きながらの指導。当初は「ハードやな」と感じていたが、選手たちの必死な姿を見ると、泣き言は言ってられなかった。
 
 
 監督として初めて踏む聖地。父には「甲子園に行くことになりました。ありがとう」と報告し、夢の舞台に立つ。

 ◆尾藤 強(びとう・つよし)1969年(昭44)7月30日、和歌山県有田市生まれの43歳。箕島時代は投手として父の指導を受け、86年夏の和歌山大会で2年生エースとして決勝まで進んだが敗退。3年時も甲子園に出場できなかった。法大進学後、長野県のサッシメーカーに就職。96年の結婚を機に帰郷し、地元の建築会社に入社。昨秋から母校のコーチを務め、今年3月に監督就任。会社勤務を続けながら指揮を執る。

・「尾藤魂」2011.9.14から朝日新聞の連載された尾藤公監督の半世紀。
・「武闘魂」応援団ブログ: http://bittoudamashi.ikora.tv/

(詳細内容)
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優勝を決め、校歌を聞きながら感極まる箕島の尾藤強監督
=和歌山市の県営紀三井寺球場
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和歌山大会で29年ぶりに夏の甲子園出場を決め、
喜びの涙を見せる箕島の尾藤強監督(手前)=27日、
和歌山市の県営紀三井寺球場
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1979年の第51回選抜大会を制し、春3度目の優勝を遂げて
笑顔をみせる箕島の故・尾藤公監督
 

 かつて甲子園を沸かせた名将の二世が27日、そろって第95回全国高校野球選手権記念大会(朝日新聞社、日本高校野球連盟主催、8月8日開幕)の代表を決めた。福岡から初名乗りを上げた自由ヶ丘の赤嶺琢(たくま)監督(48)は、1990年から沖縄水産を2年連続全国選手権準優勝に導いた故・裁弘義監督(2007年死去、享年65)の長男。29年ぶりに和歌山大会を制した箕島を率いるのは、春秋連覇を含む計4度の甲子園優勝を誇り未だに甲子園の名勝負の語りぐさになり、相互交流が今でもつづく「箕島:星陵」を勝利した故・尾藤公(ただし)・元監督(11年死去、享年68)の長男強(つよし)監督(43)だ。こちらはかつて親父が率いた同じ箕島高校の監督として、親子二代で監督を務める。父の姿を見て育った2人が、大舞台で新風を吹き込む。
 
29年の空白、半年で埋めた 箕島・尾藤強監督
 「尾藤スマイル」が甲子園に帰ってくる――。箕島の尾藤監督は今年3月1日に就任。初めての夏に、長い空白を一気に埋めた
 

 優勝校の校歌が流れると、尾藤監督の肩が震え始めた。一塁側ベンチ前で目元を覆う。「この校歌を聞きたくて、選手は毎日がんばってきましたから」
 

 技術面より、精神面の指導を心がけてきた。「どちらかと言うと個人主義。それを変えようと」。練習試合でミスや気を抜いたプレーがあると、「(夏の和歌山大会がある)紀三井寺でやったら大変なことになるぞ」と選手に説き続けた。
 

 春季県大会でいきなり優勝すると、今夏は相手に一度もリードを許さなかった。決勝は2回にスクイズで先制し、徐々にリードを広げた。「挫折したり、孤立したりした選手ばかり。それが最後にすごい力を発揮した」
 

 重圧について問われると「29年ぶりとか、ブランクとか言われるが、2年半がんばってきた3年生の夏を背負っているプレッシャーの方が大きかった」と振り返った。「父には、大きなけがなく終われてありがとうとお礼をして、甲子園に行くことになったよ、と報告したい」
 

 スタンドには卒業生や地元のファンが詰めかけた。野球部OB会の児島昭人会長(63)は「みんなでつなぎ、みんなでカバーする尾藤野球をわずかな期間で復活させた」と目を細めた。
 

 1979年夏に延長18回の熱闘を繰り広げた星稜もこの日、石川大会で決勝進出を決めた。当時監督だった山下智茂さん(68)は3月に尾藤監督と会い、「いい目、強い目になった。勝てるよ」と話したという。「本当にやりましたね。4カ月ちょっとで甲子園。やっぱりおやじがついてる。うちも甲子園で対戦できるようがんばります」と喜んだ。