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2013年1月5日土曜日

紀伊國屋文左衛門と江戸時代の物価をいまの価格に換算すると・・・!

ぱっと晴れない不透明な世相ですが、手を拱いてジッと立ちすくんでいる訳には参りますまい!昔から”石橋を叩いて渡る”という諺があれば、その反対に”虎穴に入らずんば、虎児を得ず”というのもあります。

よく考えればどちらが正しいというのではなく、どちらも正しい。それはその時におかれた状況次第だとも云えそうです。

 今年は「巳年」、くねくねと地を這いながらでも脱皮しながら前を向いて歩み続けましょう。そうすれば視界が開け自分の進む方向が見えてくるやも知れません。

まづは、松の内とて地元紀州が生んだ豪商紀伊國屋文左衛門にあやかって「乾坤一擲」パット参りやしょうか~!

おのれ一代で巨万の財を成し、それを江戸は吉原で放蕩三昧、黄金をバラマキ散在し尽くした・・・なんとも大きなスケールの胸がすく噺に御座いませんか!夢でいいからこんな雄大なことをやってみたいものじゃ

 一攫千金ミカン船~紀伊国屋文左衛門」

  ♪沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船♪

と、唄にも残る紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん・、寛文9年(1669年)? ~- 享保19年4月24日(1734年5月26日)?)
  紀州は湯浅(和歌山県湯浅町)に生まれたとされ、一代で巨万の富を築き上げた事から名前を略して「紀文」、あるいは「紀文大尽」などと呼ばれ、数々の伝説的な逸話を残す人物ですが、その伝説が、いずれも事実かどうかというのは確認し難く、謎の人物人物ではないか?なんて話もありますので、それを踏まえたうえでのお話という事でお聞きください。

  紀文二十歳のころ、正月間近・・・紀州では驚くほどミカンが豊作で、かなりの安値で取引されていました。しかし、一方で、ここの所「時化(しけ)」が続いて船が出せず、正月用のミカンが江戸へ運べないという事がおこりました。

 
紀文ミカン船出汎に地・海南市下津町
そこで文左衛門・・・知り合いから金を借りて安いミカンを買い占め、家にあった古い船を急いで修理して、太平洋の大海原に嵐を突いて船出したのです。
紀文/ミカン船モデル
   ミカン船出帆の像
そうです、嵐が止んでからでは、他の船が運んでしまいますから、ここは一つ、命がけの大勝負です。 

やがて、嵐の夜が白々と明ける頃、江戸湾にポッカリと白い帆が浮かんで見えました。
 

 ♪沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船♪

これが冒頭の唄のシーンです。


江戸の人たちが待ちに待っていたミカン・・・千石船に山と積まれたミカンは、またたく間に高値で売れ、一か八かの大博打は、見事に大成功を収めたのです。
そんなにたくさん積めたのかどうか微妙ですが、この一回で、文左衛門は3万~5万両の儲けがあったと言われています。

 
  しかも、その帰りの船でも・・・ちょうどその時、大坂では風邪が大流行していたのですが、儲けたお金で、今度は塩鮭を買い込み、船に満載して帰路につきます。
そして、「塩鮭は風邪に効くよ~」という宣伝文句のもと高値で売りさばき、こっちでも数万両稼いだのだとか・・・往路・復路とも大儲け!



そして、それをもとでに東京進出・・・いや、江戸へと下る文左衛門・・・
今度、目をつけたのは材木でした。
ご存じのように、この頃の江戸は成長著しく、人口の増加がものスゴイ事に、そのワリには家を建てる場所が限られているため、家と家との間がなく、その密集ぶりはハンパじゃない・・・
よって、一旦火事になると、必ずと言って良いほど大火となり、その度に建てなおすのが当たり前・・・なんせ、火事と喧嘩は江戸の華ですから・・・

と、そうなると、当然、材木の需要も高まるという事です。

こうして、江戸は八丁堀で材木問屋を始めた文左衛門・・・大火の後始末や神社仏閣の修復に、木材は莫大な利益を産んでいったのです。

元禄十一年(1698年)2月9日、上野寛永寺・根本中堂の造営工事が開始され、用材調達を受け負った材木商・紀伊国屋文左衛門が大儲けしました。

やがて、♪両方の 手で大門を 紀文閉め♪
なんて、川柳に詠まれるくらいのハブリの良さを見せつける文左衛門。

この大門というのは、あの吉原の門の事で、これを紀文一人が両手で閉める・・・つまり吉原を貸し切りにしたって事です。

節分の時には豆の代わりに小判をまいたなんて逸話もありますが、これも実は彼の計算ずく・・・単に、贅沢三昧して遊びほうけているのではなく、これで人を呼んでいたんです。

つまりは、派手に遊ぶ事で、そのおこぼれを貰おうという連中が集まってくるわけで、
「自分と組めば、間違いなく儲かるよ!」てな、自分の宣伝だったわけです。

もちろん、単に群がるだけのヤツはウマい事排除して、本当の儲け話を持ってくる連中とだけ、真剣なおつきあいするわけですが・・・

そして、その狙い通りやってくるのは、商人だけではありません。
そう、こういった自分宣伝が功を奏して、まずは忍(おし・埼玉県)藩主・阿部正武(あべまさたけ)との結びつきができました。

この阿部さんは、江戸城二の丸の修理惣奉行を務め、さらに三の丸の普請奉行も任されていた人物・・・そして、ここを入り口に、勘定奉行の荻原重秀(おぎわらしげひで)や大老の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)とも結びつきができていったのです。

こうして、幕府御用達の材木商となった文左衛門・・・

やがて訪れた元禄十一年(1698年)2月9日の上野寛永寺・根本中堂の造営工事・・・これの材木調達を一手に引き受けた紀文は、なんと50万両という巨万の富を得たとの事・・・

その後も、幕府の公共事業で稼ぎまくった彼は、とうとう八丁堀の一画を買い占め、そこに広大な屋敷を建てたのです。

しかし、見事な成功を収めた彼も、ここらあたりで、とうとう年貢の納め時・・・
それが、宝永十文銭の鋳造でした。

幕府の依頼を受けて乗り出した鋳銭業でしたが、彼が鋳造した銭の質が悪く、思うように流通しなかった事で大損に・・・しかも、ここに来て、将軍・徳川綱吉の死とともに、幕府内を新井白石が牛耳るようになり、正徳の治(しょうとくのち)という経済引き締め政策を開始しました。

しかも、これまで思うがままに山林を濫伐して来てしまったため、もう、売るぶんの材木が確保できないほどの材木不足となり、材木売って一攫千金なんて事もできなくなってしまったのです。

結局、材木問屋は廃業し、八丁堀の大きな屋敷も手放し、晩年は、没落&貧困の中で、享保十九年(1734年)4月24日に66歳の生涯の閉じた・・・なんて事を言われていますが・・・

実は、一方では、上記の引っ越しの時には、大八車30台で18日間かかったなんて話もありまして・・・つまり、その時にそんだけの資産を、まだ持っていたのですから、そう簡単にはなくならないだろうと思えるわけで・・・

しかも、同時に賃貸経営なんかもやってたし、さらに、あの安倍ちゃんからは、以前の借金の利子として、毎年、金50両と米50俵が、文左衛門が死ぬまで送られてきていたとも・・・
もし、これが本当なら、貧困どころか、かなり優雅な晩年をい過ごしていた事になるのですが、果たして、彼の晩年の生活振りは・・・これ如何に・・・!
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この紀伊國屋文左衛門の「ミカン船」の船出からの一節を今はなき国民的歌手・三波春夫氏の浪曲入りで語って貰えば・・・ 

「豪商一代紀伊国屋文左衛門」・三波春夫 

 http://www.youtube.com/watch?v=ar8XcsSAxRQ

 この「紀文」の稼ぎと散在の凄さを江戸時代の物価をいまの世の価格に換算すればどうなるのか興味深々、彼が稼ぎに稼いだ元禄時代は華やかな元禄文化を遺した時代だけに「元禄バブル」当時の1両=10万円と換算の時代でした。

      ☆             ☆              ☆ 

「紀文」の話はともかく古美術品を今の価格にすれば、いくら位になるだろうか?と検索を掛けて調べてみたら、思いがけない物件を吊り上げた。中を覗くと中々面白いので、みなさんにも公開しましょう!

※ 江戸時代の前・中・後期頃と平均貨幣価値の物価基準に基づいて換算します。

金 1両 = 金・銀 4分 = 金・銀 16朱 = 銀 60匁 = 寛永通寶 4千文 = 天保通寶 40枚
 
明治政府 旧金 1両 = 新 1円 = 金 1.5g ( 慶長大判 金 1両の 1/10 金含有量 )
江戸時代の貨幣 拡大画像はクリックして下さい
江戸時代の平均貨幣価値換算表


江戸時代の物価表

 
江戸時代前期 慶長小判金1両 金4.2匁(15,800mg)約  10万円銀 50 匁銭 4千文(25.0円/文)
江戸時代中期 享保小判金1両 金4.1匁(15,309mg)約  8万円銀 60 匁銭 4千文(20.0円/文)
江戸時代後期 万延小判金1両 金0.5匁( 1,892mg)約   5万円銀 150 匁銭10貫文( 5.0円/文)
江戸時代平均 金 1 両約 6.6万円銀 60 匁銭 4千文(16.5円/文)
1 貫 = 1000匁約 3.75kg 1 尺約 30.3 cm
1 匁 =   1匁約 3.750g 1 寸約 3.03 cm
1 分 = 1/ 10匁約 0.375g    
1 厘 = 1/100匁約 37.5mg   




 
 

江戸時代の“不倫の示談金”は幾らだった? 「江戸時代の物価表」がネット上で話題- RBB TODAY(2012年10月25日)

 日本刀や浮世絵、遊郭・吉原での“太夫の揚げ代”などといった、江戸時代に販売・流通していたものの値段を、現代の貨幣価値に換算した「江戸時代の物価表」がネット上で話題になっている。

 

 蒐集家・上田定緒氏が代々蒐集した古美術品資料を紹介するサイト「Teio COLLECTION」上で公開されているもの。同表では、江戸時代前・中・後期頃に流通していた金・銀貨、銭の貨幣価値や、当時に販売された商品やサービスの対価が、現代の貨幣価値に換算すると幾らになるのかを紹介している。

 

 表に記載された項目には、木綿生地や草鞋、番傘などの日用品や、握り鮨、豆腐、納豆、酒などの食品から、銭湯の入浴代、一般的な日本刀の値段、歌舞伎・芝居の見料、宝くじの当せん金、大工の手間賃など幅広く網羅しており、中には避妊薬や吉原への身売り代、不倫の示談金などといったものまで記載されている。例としてそのうちの幾つかを紹介しておくと、草鞋は1足248円、握り鮨は1貫132円、酒(中級酒)は1升2063円と、現代とほぼ同程度。屋台で食べるソバは2x8=16文と相場が決まっていたから今の換算では264円、これはチト安くて今の半分ぐらい。食い物は概して安く、手間賃は今の半分ぐらい。そうなら収入が少なく、生活費は安い。

 

ちなみに吉原への身売り代は娘の場合で330万円、妻の場合は528万円、不倫の示談金は1回あたり49万5000円だそうだ(1文=16.5円)。

 

 こうしたデータがまとめサイトやTwitterなどを通じて紹介されると、ネット上では「風呂屋大人132円は安い」「長屋とはいえ、家賃が相対的に安くて羨ましい」「マグロ1尾3300円・・・嘘だろおい」「いやはやこれは面白い」などと興味を示すユーザーが続出。編集家で漫画原作者の竹熊健太郎氏も自身のTwitter上で、「これはいい資料」と興味津々。

「刀って165万円もしたのね。現代人が新車買うようなものかな。浮世絵が32文=約500円で、新刊書は約5000円。ここから考えても、黄表紙や浮世絵は今のマンガに相当することが理解できますね」とツイートしている。

 

どうでしょうかね~、江戸時代へタイム・トリップして一度は紀伊國屋文左衛門のように大尽遊びをしてみたら、酔いからから醒めた翌日はスッカラカンの空財布か、身ぐるみ剥がれて追い出されるのと相場が決まってらあな~!!!

 
そこで都々逸を一唸り!
   

    ”都々逸は 野暮でも 遣り繰りや~上手  今朝も七つ屋(質屋)で褒められた”

    ”上見りゃほどなし 下見て暮らせ 橋の下には宝船”  お粗末さまでござんした!

4 件のコメント:

  1. 明けましておめでとうござりまする^^
    本年も昨年に引き続き、変わらぬ御交誼のほど
    宜しゅうお願い申し上げまする。

    江戸時代と現代の物価の比較は面白いですなぁw
    それがしも何度かブログで取り上げましたぞ^^

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  2. モノノフ殿
    江戸時代の物価は面白いですなぁ!
    江戸っ子には初鰹に1尾5200文=85800円も出すとは!
    米1升100文=1650円、歌舞伎や芝居も人気だったようです!
    ただし、一般庶民には暮らし向きは楽ではなさそうです。
    経済学に金本位制のもとではグレッシャムの法則に
    「悪貨は良貨を駆逐する」というのがありますが、
    紀文が請負うたお金の鋳造は、余程「粗製濫造」だったのか、
    この法則が当てはまらなかった処を見ると悪貨中の悪貨だった
    のでしょうなぁ~!

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  3. 寒中お見舞い申し上げます。
    ご挨拶が遅くなりました。
    今年もよろしくお願いいたします。
    おもしろいですね、この価格表。
    私は、ところてんの高さにびっくりしました!
    お江戸と上方では、また価格も違ったのかもしれませんね。
    それに布地や着る物も高いですね。
    江戸時代の人が、布を大事にしていたのがよくわかります♪
    今日の東京は、ぼたん雪がしんしんと降り続いて、一面の銀世界です。

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  4. megさん
    江戸時代の物価表、現在と比較するとなかなか面白いですね!
    わたしは歌舞伎は庶民にも好まれたとばかり思い込んでいま
    したが、これじゃぁ、庶民には無理ですね!
    それに初鰹、何をさておいても江戸ッ子は無理をしてでもとは
    聞いてましたが、手が出ませんね!
    首都圏は思いがけない悪天候で、大都市の弱い面が暴露した
    感じです。明朝の氷結のはご注意下さい。

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