平安時代に入ると、歴代法皇の「熊野詣」が相次いだ。
法皇の「熊野御幸」の回数を調べてみると、下記の如くである。
宇多天皇 59代(867-931) 1回
花山天皇 65代(968-1008) 1回
白河天皇 72代(1053-1129) 9回
鳥羽天皇 74代(1103-1156) 21回
崇徳天皇 75代(1119-1164) 1回
後白河天皇 77代(1127-1192) 34回
後鳥羽天皇 82代(1180-1239) 28回
後嵯峨天皇 88代(1220-1272) 3回
亀山天皇 90代(1249-1305) 1回
◎「法皇の熊野詣の意味と熊野古道について」
熊野路は浄土への道であった。熊野の神々に憧れた人々がたぎる信仰を胸に、山を越え海沿いをよぎって行った。それは皇族から庶民まで、中世から近代にかけて果てしなく続いた。「蟻の熊野詣」であった。
この熊野路の名を高めたのは、平安の中ごろから鎌倉後半にかけての「熊野行幸」だった。 延喜7年宇多法皇から弘安4年亀山上皇まで、実に374年間にわたり、100回以上の行幸であったといわれている。
早朝京都を出発まず淀川を船で大阪に下る。それから陸路南に向かい田辺・中辺路をたどって熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の順に参るのが順路である。 往復の日数は20日から一ヶ月、一行の人数は最大で814人、最小のときで49人、平均300人前後にのぼったといわれている。
上皇、法皇は白ずくめの服装に杖という山伏に近い姿、道筋の各所に「九十九王子社」と称される休憩所がもうけられ、そのうち五体王子と呼ばれる大規模な王子社が「藤白」「切目」「稲葉根」「滝尻」そして「発心門」と五ヶ所あった。この五体王子社は催し・歌会・宿泊場所等に当てられた。(近露王子跡にあった石碑の記載を参考にした)
800年もの昔、法皇ご一行の人数を、果たしてどのようにして休憩・宿泊応対がなされたのであろうか?はなはだ興味深い。
当時国を預かる国司はその度に目が回る忙しい想いをしたに相違なかろう。
だが、そこは雅な法皇・貴族のご一行、雑事は雑人・下人(ぞうにん・げにん)任せで歌会で各自の歌を競ったのであろうか。 では、地元藤白王子の歌会で詠まれた歌を披露させて頂こう。
■ 熊野の歌◆熊野懐紙6
:建仁元(1201)年十月九日 藤代王子・題「深山紅葉、海辺冬月」

【熊野懐紙】懐紙(かいし、ふところがみ)とは、懐に入れて携帯するための小ぶりで二つ折りの和紙である。
古くは平安時代より貴族階級において様々な用途で使われており、現代でも和装の際や茶道・和食などの席で使用することが多い。熊野懐紙とは、下で説明します。
後鳥羽上皇は、譲位の後、二八回熊野に参詣するが、その途上、所々の王子社において法楽供養と旅情の慰めのために歌会を催した。
歌会に参加した人々が自詠の歌を書いて差出した和歌懐紙が、「熊野懐紙」である。各歌会での懐紙は、上皇真筆を筆頭につなぎ合わせて一巻となし、裏面に上皇が歌会の催された場所と年月日を記すのが通例である。
しかし現存する熊野懐紙は一枚ずつはずされ掛軸に仕立て上げられているものが多い。のちの世に所謂茶掛けという掛け軸に仕立てられて姿を変えた。
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24年の在院期間のうちに28回もの熊野御幸を行った後鳥羽上皇。
その熊野御幸の特色として、道中、五体王子といわれる宿所となる王子社などで神仏を楽しませるために和歌の会が度々催されたことが挙げられます。
ここで詠まれた歌は「熊野懐紙」といい、国宝・重要文化財に指定されています。
現存する熊野懐紙とその歌の数は現在のところ、35枚、70首。和歌会の催された年月日、場所、歌題によって7つに分類することができます。
1.正治2年(1200)12月3日 切目王子 「遠山落葉、海辺晩望」…11枚22首
2.正治2年(1200)12月6日 滝尻王子 「山河水鳥、旅宿埋火」…11枚22首
3.年月日未詳(正治ニ年と推定) 藤代王子 「山路眺望、暮里神楽」…3枚6首
4.年月日未詳(正治二年と推定) 場所未詳 「古谿冬朝、寒夜待春」…2枚4首
5.年月日未詳(正治二年と推定) 場所未詳 「行路氷、暮炭竈」…4枚8首
6.建仁元年(1201)10月9日 藤代王子 「深山紅葉、海辺冬月」…3枚6首
7.建仁元年(1201)10月14日 近露王子 「峯月照松、浜月似雪」…1枚2首
ここでは6の<建仁元年10月9日 藤代王子 「深山紅葉、海辺冬月」>の3枚の懐紙に書かれた歌6首をご紹介します。
藤白神社は紀州熊野の入り口と言われ、また名勝でもあるので万葉集歌頃から多くの歌が詠まれています。
また、後鳥羽上皇のお供で熊野詣をした藤原定家はその著『熊野御幸記』にも、藤代(白)神社界隈のことが記録に遺されています。この藤白神社はわたしの家から約5km南にあり、その近くには悲劇の王子・有馬皇子の歌碑と墓が、全国鈴木姓の発祥の地といわれる「鈴木屋敷跡」があり、古代からの史跡が相当数残されています。ここを訪ねる観光客が多く、また語り部の案内で急峻な藤代峠を越える方も大勢おられ、世界遺産登録を期にかつての賑わいに戻りつつあります。
現代語訳には現代語訳の本を頼りに私の表現で訳しましたので、かなり怪しい解釈箇所があり、わからない箇所も多々あります。何かお気づきの点など逆にRE:コメント下さい。
深山紅葉
うばたまの よるのにしきを たつたひめ
たれみやま木と 一人そめけむ
(誰がこんな深い山の紅葉を見るだろうか。見る者もなく紅葉を織りなす甲斐もないが、竜田姫(竜田姫は秋をつかさどる女神。紅葉を織りなす女神と信じられた)は自分ひとりのために深山の木を染めたのだろうか。)
紀貫之の「見る人もなくて散りぬる奥山の紅葉は夜の錦なりけり」(『古今和歌集』巻五 秋歌下 297)を本歌としている。
、美しい錦も夜はその美しさが目立たなく着る甲斐がないことから、「甲斐がないこと」を意味する。
海辺冬月
浦さむく やそしまかけて よる浪を
ふきあげの月に まつ風ぞふく
(浦は寒く、多くの島々をめがけて打ち寄せる波を、さらに吹き上げる吹上の浜に、月が照っているが、松風が吹く。)
2.源通光(みなもとのみちてる。1187~1248)の歌。右中将通光
紅葉ばは しぐれのみかは たづねいる
ひかずのふるに いろまさりけり
(山深くの紅葉の葉には時雨だけが訪ねるのか。日数が経つにつれて色鮮やかになってくることだ。)
おきつかぜ ふきあげのはまに すむ月は
霜かこほりか うらのあま人
(沖から吹く風よ。吹上の浜に澄み渡る月は霜か氷か、浦の漁夫よ。)
3.藤原定家(ふじわらのさだいえ(ていか)。1162~1241)の歌。 左近衛権少将
こゑたてぬ あらしもふかき こゝろあれや
深山のもみぢ みゆきまちけり
(声をたてぬ嵐にも深い心があるのだろうか。深山の紅葉が御幸を待っていることだ。)
くもりなき はまのまさごに 君が世の
かすさへみゆる 冬の月かげ
(曇りなく澄んだ冬の月の光。その光に照らされてはっきりと見えている(吹上浜の)細かな砂(の粒の数の多さ)に、あなた様の齢〔よわい〕の数までもが見えるようです。)(後鳥羽上皇様、どうかお健やかにご長寿でお過ごしくださるように。)
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
・「紀州へ入って湯浅までの熊野古道について」
和歌山県に入って最初の中山王子があります。峠を越すと紀ノ川平野の大展望がひらけ、南国紀州に入ったことを実感します。
紀ノ川を渡り、矢田峠、汐見峠を越えると、祓戸王子から藤代五躰王子(現在の藤白神社)に至ります。ここは熊野一の鳥居、熊野の入り口です。
藤原定家が建仁元年(1201)に後鳥羽上皇のお供をした時の『熊野御幸記』に「攀じ登る」と書いた藤白峠、拝の峠、糸我峠の厳しい峠を越えて湯浅へと向かいます。けわしい山坂の連続を乗り越えて無事に熊野三山への参詣を果たすよう、上皇・法皇が延べ100回にわたる熊野御幸の際には必ず藤代王子に宿泊をして道中の安全を祈願し、さまざまな法楽・歌会を催していました。
当時、厩戸王子のある信達(大阪・泉南)の宿を出発し、藤代まで1日、藤代から湯浅まで1日の行程でした。
建仁元年、このとき後鳥羽上皇に随伴した歌人・藤原定家が著した『熊野御幸記』(実物・国宝)から、藤白王子の近くの王子を旅した様子を、現代語訳にして、お届けしよう。その当時の熊野詣の様子の一端が分かるかも、わたしは藤原定家『熊野御幸記』を、地元作家・神坂次郎氏の本で読みました。

建仁元(1201)年10月08日
・「日前宮奉幣使」(「日前(ひのさき)・国懸(くにかかす)両神社をいう。出雲・伊勢神宮とともにわが国でも最古の神社と云われる)
八日 天気晴れ
明け方に出発して、信達一之瀬王子に参る。また坂中で祓する。
次に地藏堂王子に参る。次にウハ目王子(※馬目王子※)に参り、次に中山王子に参り、次に山口王子に参り、次に川辺王子に参り、次に中村王子に参り、次に昼養の仮屋に入る〔ハンザキ〕。
従者らは指示がなく、その仮屋は甚だ荒れている。ここで時ならぬ水コリがある。
御幸を相待つが甚だ遅い。忠信少将が参り会って、しばらくして先にこの王子〔ハンサキ(※吐前王子※)〕に参る。しばらく相待つ間に御幸が終わる。
先に出て御祓所〔ワザ井ノクチ〕を設ける。
(日前宮奉幣を勤仕の事)日前宮の御奉幣である。
(予が御幣使となる。その儀式)
しばらくして、ここで御祓があった。予は御幣を取って立つ。御祓が終わって庁官に返し給う。神馬2疋を引かさせ、御幣を持って、日前宮に参る。
社殿の前は甚だ厳重であるが、浄衣折烏帽子は甚だ平凡である。
但し道の習わしは何となさんか。
・両社(※日前神宮・国懸神宮〔ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう〕※)の間中央の石畳(舞台のようだ)の上に座す〔こも二枚を敷いて座となす。中を切ったのは西東の区切りためか〕。
神職の教えによって、御幣を取って拝す〔前後の両段〕。神職に捧げる〔御使は御幣を取って拝舞する。そんな例を知らない。諸社の奉幣使は御幣を社に捧げて笏をもって拝するが、どうだろうか?〕。
神職は唐笠を差して来る。〔日の光に当たらないためとのこと。普通の束帯である。ただしこの男は大宮司の息子であるとのこと。その父においては紙冠を戴き、戸外には出ず、戸内にいて僅かに見える〕御幣を取る。
黄衣冠の神人(※じにん。神社に所属した奉仕者※)に、中門の戸内に入らさせ、祝詞。それを聞き終わると、神人がまた中門を出て還祝がある。
予は立って、東のこもに座す。また御幣〔本より2本である〕を取って拝し同じく神職に捧げる。
順序は例の如し。終わって退出〔石畳の下でシトを徹し、やはり脛巾を付ける。この役を奉仕するのは恐れがある〕。
これより道に向う。はなはだ遠い。満願寺を過ぎる間に、僧らが忽ちに喚び入れる。毎度日前御幣使はこの寺に参るとのこと。無理矢理に参入させられた。
役人が御誦経物をそろえると、僧らは「品が乏しい〔先例に似ない〕」という。すこぶるおもしろくない。僧が仕方なく礼盤(※らいばん。本尊の前で礼拝し誦経するための高座※)に昇る間に予は退出する。
遠路を凌いで道に出て、ナクチ王子に参る〔これより先また2つの王子がいらっしゃるとのこと。ワサ王子・平緒王子は道の途上にないので参らない。先達だけが奉幣する〕。

(旧海南市には5箇所の王子がありましたが、05年4月下津町との合併で四カ所増えて合計九箇所になりました。上に地図を掲げて置きます。)

次に松坂王子に参る(子を抱く盲女がいた)。

次に松代王子(海南・春日神社西麓)に参る。

次に菩薩房王子に参る〔これより歩く〕、




・湯浅宿で和歌会
九日 天気晴れ
朝の出立がすこぶる遅れたため、すでに王子(※藤代王子※)の御前にて御経供養などを行なっているとのこと。
営みに参ろうとしたが、白拍子の間、雑人(※ぞうにん。身分の低い者※)が多く立っていて、隔ててそこへ行けない。
無理に参ることはできずに素早くそこを出て、藤白坂をよじ登る〔五躰王子で相撲などがあったとのこと〕。
道は険しくほとんど恐ろしいほど。また遠くに海を望む眺めは興が無いことはない。 塔下(トウゲ)王子に参り、


次に〔藤代山を過ぎ〕橘下王子に参る。次にトコロ坂王子に参り、次に一壺(イチノツボ)王子に参る。次にカフラ坂を昇り、カフ下王子に参る。また険しい山道。次に山口王子に参る。
次に昼食所に入る〔宮原とのこと。御所を過ぎて小家に入る〕。次に いとか王子に参り、また険しい山を凌いでイトカ山を昇る。
下山の後、サカサマ王子に参る〔水が逆流することからこの名があるとのこと〕。
次にまた今日の湯浅の御宿を過ぎ、三四町(※1町は約109m※)ばかり、小宅に入る。
上(国)より宛てがった例の仮屋があるが、この家主が雑事を設けているのでここに入る〔文義(※定家の雇った先達※)の知り合いの男とのこと〕。
先の小宅に入っている間に、これから先の宿所をまた文儀の従者の男の手配で取る。件の宅は憚りがあるとのことを聞き付ける。
よって小宅を騒ぎ出て宿所に入った〔先達はこのようなことは憚からないとのことを言われる。父の喪70日ほどとのこと〕。
そうだといっても臨時の水コリ〔をかいて〕、景義に祓わせた。また思うところあって潮コリを取ってかく。これは臨時の事である。
この湯浅の入江の辺りは松原の勝景が奇特である。家長が歌題2首を送る。詠吟は疲労していて、甚だ術がない。
灯りをともして以後、また立烏帽子を着けて一夜のように参上。
しばらくして蔀の内に召し入れらる。また講師の事を仰ぐためである。終わってすぐに退出する。
題 深山紅葉 海辺冬月 愚詠
今日もまた2首当座
こゑたてぬ あらしもふかき 心あれや
みやまのもみぢ みゆき待けり
(声を立てない嵐にも深い心があるのだろうか。御山の紅葉が御幸を待っていたことだ。)
くもりなき はまのまさこに きみのよの
かずさへ見ゆる 冬の月かげ
(曇ることなく澄んだ冬の月の光。その光に照らされてはっきりと見えている(吹上浜の)細かな砂(の粒の数の多さ)に、あなた様の齢の数までもが見えるようです。(後鳥羽上皇様、どうかお健やかにご長寿でお過ごしくださいませ。)
今日はもっぱら文義・得意らが田殿庄に指図する。(女房中納言殿の便書)遂に見ずに来るとのこと(以下略)
この1年間のお付き合い、まことにありがとうございました。予定を1日繰り上げてこの記事を綴りました。
明30日に、本年の〆括りに、今年の一年を振り返って、このところ余り披露しない「しげやん節」の一席で、本年の幕を降ろさせていただきます。
どうぞ、よいお年をお迎え下さい。
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