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2010年12月27日月曜日

28日・地元に遺る「大塔宮熊野落」伝承(海南市・春日神社)

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 海南市『春日神社』の「大塔宮護良親王御逗留」伝承のこと 

 和歌山県海南市大野中にある『春日神社』は祭神は「天押帯日子命(あめのおしたらしひこのみこと)」(古事記)「天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)」(日本書紀)と申し上げ人王5代孝昭天皇の御子とその3世孫「彦国葺命(ひこくにふくのむこと)」をお祀りし、いずれも古代大和の豪族和爾(わに)氏の祖神であります。

 記紀によれば、天押帯日子命(天足彦国押人命)は人王5代孝昭天皇の皇子で、母は瀛津世襲の妹・世襲足媛命(よそたらしひめ『日本書紀』本文、『古事記』では余曽多本毘売命、日置姫)。同母弟に日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと・6代孝安天皇)がおり、『日本書紀』本文での皇后・押媛命は天足彦國押人の娘と記述されます。 
 欠史八代に当たり、事績は伝わらないが、『古事記』には、阿那臣・壱比韋臣・大坂臣・大宅臣(おおやけのおみ)・小野臣・柿本臣・春日臣・粟田臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟邪臣(むさのおみ)・都怒山臣・伊勢飯高君・壱師君・近淡海国造(ちかつあふみ)の祖『日本書紀』には和爾の祖とし、『新撰姓氏録』にも同様の系譜記載があります。 
 なお、子に和邇日子押人命(稚押彦命)孫に彦国葺命がおり(『和邇系図』)、名からして和邇氏族の宗祖的存在と言える。各地にある「柿本神社」は和爾氏の同族で有名な歌人・柿本人磨呂があります。

 同族の小野氏には小野妹子・好古・篁・道風・小町(伝説上の人物)等々有名人を輩出してますし、粟田氏では粟田真人(あわたのまひと)奈良時代の官人・学者。大宝律令の制定に加わり、遣唐使として渡唐。帰国後、正三位中納言がおり、また古代に皇妃として和邇氏系女性の名が数多く見られる。

 奈良県平群町にある「猪上神社」、滋賀県滋賀郡志賀町の小野神社の祭神である。
天理市櫟本・和爾下神社、大和郡山市横田の和爾下神社も明治初年頃までは祭神としていた。

 また、静岡県の富士山本宮浅間大社の大宮司家は富士氏で、孝昭天皇の後裔とされる古代豪族和邇部氏の裔になる。降って時棟が初めて浅間神社の大宮司となった。以後、時棟の子孫が大宮司職を継承している。
 海南市の「春日神社は、紀伊国神名帳に「正一位春日大神」と位置づけられている格式の高い神社で、海南市では「正一位」を与えられたのは、現存社では、春日神社だけで聖武天皇の御宇から代々の祈願所として朝廷の厚い保護を受けていました。
 春日神社が紀州大野郷に勧請された経緯をみると、春日・御蓋山は古くから山そのものが信仰の対象(神奈備)とされ、これを和邇氏同族の春日小野氏が奉斎していたが、新興の藤原氏が勃り藤原不比等の時代に和邇氏同族が春日の地を逐われ、藤原氏がとって替り、春日の地を得て春日大社を創建、和邇氏および同族は周辺の地の追いやられ、和邇氏が本拠とした大和や春日の地には和邇氏系の神社が見当たらず、これが大和の古代豪族和邇氏系が没落あるいは周辺の地へ追われたことの傍証になるのではないか、と考えている。
 したがって、春日と藤原氏の春日大社と同じ春日であるが、祭神が藤原氏のそれとは全く異なる。この春日神社は春日の地か、春日氏に由来する。
 明治の神社合祀令施行以前にはいまの春日神社を上の宮、西側の近くに粟田神社があり、これを下の宮といっていたことから。同じ和邇氏系の春日・粟田氏を意味することは明らかである。


 また、元春日という神林よりご神意により、吉方位を撰び現在の地に移転鎮座したため「方位除け」の神様としてまた、「厄除け」の神様として崇拝されています。
境内には熊野古道の松代王子が祀られています。

 この「春日神社」に「大塔宮護良親王熊野落」伝承が遺されています。

◎「大塔宮護良親王の熊野落」と「大野十番頭」


・・・・(前略)「由良の湊を見渡せば、沖漕ぐ舟の棹をたえ、浦の浜木綿幾重とも、知らぬ浪路に鳴く千鳥、紀の路の遠山渺々と、藤白の松にかかれる磯の浪、和歌・吹上をよそに見て、月にみがける玉津島、光も今はさらでだに、長汀曲浦の旅の路、心を砕く習なるに、雨を含める孤村の樹、夕を送る遠寺の鐘、あわれを催す時しもあれ、切目の王子に着き給ふ。」太平記に有名な大塔宮護良親王の熊野落ちの際の伝説が海南に残っている。



※「大野(春日)十番頭」とは・・・
 「大野(春日)十番頭」というのは、神護景雲の比、春日神社を大和春日の地から紀州大野郷に勧請してきたとき供奉してきた十家で、建立後には年毎に交代で神主を努めた十人衆で、神社は大野郷十ヶ村の守護神で大野郷(現在の海南市西部と和歌山市南部の一部)を治めた地方豪族で、大塔宮さまからそれぞれ受領名を賜ったと伝えられています。
 のち武士化し、紀州国守護の被官を務め、信長の時代に信長の紀州雑賀衆攻めのとき、信長方:反信長方に分かれ討ち死にする者も多く、急激にその勢力が衰えてしまった。
 徳川の治世に入ると旧勢力の土豪を、藩の懐柔作戦により地士(郷士)として処遇し、その勢力の牙を抜く藩政を敷き、そのなかに没入して十番頭の後裔も勢力を失ってしまった。


 話が戻るが、笠置が落城したのは元弘元年九月二十八日(西暦1331年)であったが、同じく十月二十一日に赤坂も落城したので、大塔宮は金剛山の転法輪寺に入られ、楠木正成、四条隆資等と倒幕の計について協議された後、紀州経略の第一歩として高野山に赴かれた。
 しかし高野は北条氏を憚って中立を標榜し積極的な援助を肯じなかったので、宮はやむなく花坂・池尻を経て布施屋より小栗街道に従って山東荘須佐より藤白に向かって歩を進められた。 
 これは元弘元年(一三三一)十一月中旬より下旬にわたる頃である。
お伴の武士は光林坊玄尊、赤松律師則祐、村上彦四郎父子、片岡八郎、平賀三郎、矢田彦七等であった。  
 さて、この途上、宮は大野荘幡川の禅林寺に一夜参籠されたが、落人の心細さから、この辺に武士たるもの無きやとお尋ね有った。
 ここに大野十番頭の面々が馳せ参じ、警固の任に当たり、一時宮を春日神社に隠し申し上げた。
 故に今に至まで相殿三扉の中、一は空位であるという。宮は大野十番頭達の忠勤を深く称せられ、此時宮は十番頭の其由緒を聞き賜ひて、自ら春日大明神の御名を書き、その脇に先祖の受領をも書き添えられ、夫々一幅づつ賜わったと言うを身の守と放たず、諸処の戦場に出たという。
その十人の祖は
・鳥居浦 三上美作守
・同浦 稲井因幡守 
・同浦 田島丹後守

・同浦 坂本讃岐守
・同浦 石倉石見守
・神田浦 尾崎尾張守            
・井田村 井口壱岐守 
・中村 宇野辺上野守
・中村 中山出羽守         
・幡川村 藤田豊後守

であり、紀伊続風土記には、大塔宮御親筆として、その図を掲げ長さ一尺七寸・幅五寸五分と説明しているが、今はみな紛失して一も遺るものなしと註している。
但し大野郷名高の専念寺等の学僧全長上人が1742年ごろに書いた『名高浦四囲廻見』が記する処によれば、元禄の頃には少くとも二つは現存していたらしい。
 
 全長の著した「名高浦四囲廻見記」には、大塔宮より給ハりし春日大明神の宝号とハ大塔宮流浪の御身にて在せしに、拾人の武士御味方となりし御褒美に若シ我レ天下をおさめハ、其時諸大夫(従五位の位)になさんとの印に給ハりしなりと云……以下略 と有り。(宮は落人の身で与える物これとてなく、我天下をおさめれハ・・(仮定)、という云わば空手形を数多く発行したようで、これもその一種と思われる。)

大塔宮護良親王御親筆


  春日大明神         
         石倉石見守逸吉

長一尺七寸 幅五寸五分 (注)紀伊續風土記より引用

 寛政十二年、大野十番頭の末裔井口平之右衛門より、藩へ提出した由緒書には「元弘二年三月八日、大塔宮護良親王熊野御参詣の砌、大野庄春日山に御宿座之節初めて十番頭之輩、幕下に属し奉る。」と記されている。
 即ち、十番頭の家々に伝わる伝説及び春日神社の旧記はいずれも大塔宮の大野御逗留を元弘二年三月のこととしているのである。

 大塔宮の熊野入りについてはその経路に三説あるが、その研究において最も詳細である「大塔宮の吉野城」の著者中岡清一氏は、宮の高野山御座は元弘元年十一月初め頃より中旬までであり、切目王子御通過を元弘元年十一月二十日前後と考証せられているから、多分中岡説が正しいかと思われるが、元弘二年三月とする我が地方の所説は春日神社で年を越されたという伝説などと共に何か拠り所があるようにも思われる。

 さて、大野十番頭に伝わる説に、神護景雲二年(七六八年)春日社勧請の時、十人の祖が南都より供奉して当荘に来たり住したとなっているが、これは中世大野の春日神社の祭神を以て奈良の春日と同神なりとする誤伝があった処から生じたものであろうが、しかし大野十番頭は春日社の祭神たる人王5代孝昭天皇の御子天足彦国押人命の子孫、即ち大春日姓の人々の中の由緒ある家柄に発した者であろうことが想像できる。
 そしてはやくより、春日神社および禅林寺を中心とする当地の郷士であり、大きな勢力を持っていた事は事実であり、その子孫の多くは織田信長時代の井松原合戦に参加して戦死する者もでたが、徳川幕府の成立と共に、地士として優遇せられる者も多く、現在その姓を名乗る家も市内に分散している。

 それらのうち、日方の石倉氏、黒江の尾崎氏などはその正統を伝え、代表的の家であると言われている。


なお、次に『南紀徳川史』を引用して参考にする。
〇 寛政十二年(一八〇〇)大野十番頭の末裔井口平之右衛門より藩へ提出した由緒
・神護景二年(七六八年)名草郡三上郷大野荘へ春日大明神を勧請之刻南都より供奉之面 々十人有之十番頭と号す。即ち、尾崎・稲井・井口・坂本・藤田・石倉・中山・田島・三上・宇野辺也
・右各大野荘に止まり、数代郷士にて三上郷大野荘所領し、春日両社、幡川村禅林寺、鳥 井村観音寺、山田村菩提寺、井田村地蔵寺右寺社其砌より十番頭支配仕来る。
・禅林寺は聖武天皇勅願所にて行基僧正住職、其砌十番頭之者営作之事共奉る。(久世註 …この項は?)

一 元弘二年(一三三二年)三月八日、大塔宮護良親王熊野参詣之砌、大野荘春日山に御宿座之節、初めて十番頭之輩幕下に属し奉る。

一 当国、山名、大内、畠山等領主之節、阿州三好進発意熊野三山且天川出張之節、被相催之段神妙之至候旨、遊佐河内守基盛より十番頭衆御中と宛てたる書翰並びに右同人よ り十番頭と被記、仲間の内所持する。

一 天正十八年(一五九〇年)八月紀州根来寺並びに太田城落城以後、猶国中所々一揆屯し、及び狼藉候に付、十番頭へ御掟相守候様にと、豊臣秀吉公より御朱印状被下置。

一 三上郷大野荘春日明神之社領、奥の院幡川禅林寺寺領の外は、十番頭の面々之所領にて有之候由、此段は明暦二申(一六五六年)六月由緒御尋ね之節も書上げ申候。

一 南龍院様(徳川頼宣公)御入国之後、元和八酉年(一六二二年)六十人に被為召出、其後代々相続仕る。是に依て見れば、初めは神職に類し社寺領支配之処、遂に其を押領し、自ら十番頭と号して武威を張り、世襲之地頭となりし也。地士由緒之内十番頭之事往々見る処とす
※( 久世正富) 『海南郷土史』 昭和六二年六月 (株)臨川書店
(引用) 『紀伊名所図絵』にいふ
元弘二年(一三三二)年の春、大塔宮護良親王、南都般若寺より熊野へ落ちさせたまふとき、此所にきたらせ給ふて御社参あり。日も夕陽になりければ、早くも幡川の薬師へ御参籠ありて通夜し給ふに、落人の御身なれば御心細さに、直宿のものに問はせ給ふには、此辺に郷士はなきやと御尋ありしかは、則十人の郷士相詰め守護し奉るとの由申し上げれば、御感のあまりに受領を賜わりける。云々…
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 春日神社の境内に「大塔宮護良親王御逗留旧跡」之石碑を大野十番頭の末裔有志が寄付、建立しました。
 たまたま、朝日新聞社が【わが街の自慢の史跡・記念碑】を05-06年にかけてシリーズで紹介したなかに、海南市・春日神社境内「大塔宮護良親王御逗留旧跡があります(05・12・19掲載)。
 (写真・左から十番頭末裔・井口敏男・尾崎林太郎・しげやんこと尾崎重光の各氏)


 この建立の除幕式のあと「大塔宮護良親王熊野落事と地元に遺る伝承について」と題して、私が講師役を勤めたときのことが、地元の新聞に掲載されたので併せて紹介しておきます。(「わかやま新報・H17・9・18掲載)
続き(・大前綾子さんは「熊野古道を辿る大塔宮」を先々テーマに鎌倉時代末期の状況を踏まえながら、分かりやすく解説し、参加者は興味深々に熱心にメモをとっていた。

(付録・春日神社西の麓の境内にある熊野古道「松代王子社」)


(今年の最後として30日に熊野詣に関わる歌会で詠まれた「熊野懐紙」を地元藤白神社歌会時の作を紹介し、本年の〆(忘年会替わり)と致します。この一年間ありがとうございました。年明けは1月5日頃から)

5 件のコメント:

  1. こんばんは♪
    ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます。(笑)ご先祖さまのご遺徳をしのび、すばらしい事業をされたんですね。なかなかできることではありません。
    富士宮にはたしかに「富士」さんがおられます。ご職業も大宮司と伺っております。和邇氏は渡来人と習った記憶があるのですが、わが浅間大社の起源もあちこちにちりばめれられた秘められた民族の歴史の一こまなのかもしれませんね。

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  2. EYASUKOさん
    ご丁重なるご挨拶、まことに光栄に存じます。
    わが国の「古事記」「日本書紀」にしても、天武天皇と
    その後継天皇達、そしてそれに仕えた藤原不比等が自分
    たちの都合が良いように作り替えたいわば「創作歴史書」
    だという学者が大勢おります。
    歴史はその時々の為政者、権力者の都合で創り上げられる
    のは事実でしょう!
    わたしが、かつて訪韓したときに新日韓国人に「日本に
    とって中国は日本文明の父であり、韓国は兄である」と
    いったとき、彼の喜びようは大変でした。信頼度は急上昇
    しました。事実、実際にそう思います。

    この神社の宮司さん、和歌浦・東照宮の身内から養子に
    入った方で、わたしより2回り年が若いのですが、昔の
    「春日神社」に再興したいとの思いが強く、わたしも定年
    過ぎで時間がとれましたから、二人で祖神のことや和爾氏
    のことを調べ回りました。また宮司さんは大野十番頭末裔
    が集う会を拵え、なにかと力になって欲しいとの希望でし
    たので、会の発足当初は相当協力しました。
    「大野十番頭」の末裔が集う「大野十番頭まつり」も、
    かれこれ12回開催しました。
    お金をだしてまで、家の来歴は欲しいとは思いませんが、
    折角数百年の歴史ある家名は汚したく思いはあります。
    古代史の世界はオドロオドロして面白いですね!

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  3. EYASUKOさん
    ナイナイ、ずくしで「ない」を欠落していました。
    下から2行目は、汚したく(ない)思いはあります。が正解
    です。
    それから古事記や日本書紀の記述、あながち嘘ばかりでは
    ないようですね!例の「箸墓古墳」、邪馬台国の卑弥呼に
    一歩近づいてきた感じがします。

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  4. 伝説や、物語の中には、政治的敗者の記憶が残されているといいます。正史は、権力者の記録ですから、変えられていることも多いですね。そのへんを、いろいろな史料から複眼的に検討して行くのが、史学を学んだものの役目です。
    地元の伝承を掘り起こし、伝えていくのも、また重要なことであり、楽しいことでもありますね。

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  5. 玲小姐さん
    早速のカキコありがとうございました。
    玲さんが仰っしゃることは、、かつて能登国守護畠山義総の
    文書を鑑定頂いた玲さん同学の先生の紀州の中世講座を受講時に歴史書・軍記物・文書・伝承等から歴史の信憑性の度合いの話を聴きました。表裏を観察する複眼思考がないと歴史を学び語るには片手落ちという訳ですね!復習できました。
    ありがとうございました。

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