紀州に出自をもつ歌人として余りにも有名な佐藤義清(出家して西行を名乗る)の下記の和歌とともに命日に当たる日ではなかろうか?出身地の地元紀州田仲荘(現・紀ノ川市打田町)では、西行の記念碑が建てられている。
西行が入寂した河内国の弘川寺でも記念の供養が営まれているに相違ない。
”願わくば花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ”―西行法師
(陰暦2月16日は、今年は今日3月27日に当たる。西行法師の823回忌にあたる。)西行(さいぎょう)、元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。 父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号はは円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。
勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。
わたしは、西行が好きで、紀州が誇る鎌倉時代の西行(歌人)・明恵上人(僧侶・歌人)・宗祇(連歌師)は三大偉人と思っている。西行については白洲正子著『西行』や辻邦生著『西行花伝』や彼の『山家集』から和歌を拾い詠みしたり、天野の里や高野山の庵を訪ねたりしてきた。
とりわけ、桜を詠んだ和歌では本居宣長の「敷島の 大和心を ひと問はば 朝日に匂う 山桜花」とともに西行のこの歌が好きである。「花に下にて われ死なむ」と桜とは直に言ってはいないが!
西行法師の生涯・ 出生地、紀州田仲荘(現・紀ノ川市打田町)
所在地 | 和歌山県紀の川市竹房 R424沿いのバス停「西行法師像前」より徒歩約10分 |
TEL | 0736-73-3311(紀の川市商工観光課) |
文治六年(1190)春、桜が咲く二月十六日、
”願はくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの 望月のころ”
と自ら詠んだ歌のとおり、河内国南葛城(現在の河南町)弘川寺で入滅した。
円位上人こと西行は、元永元年(1118)、父-佐藤康清、母-源清経の娘との間に生まれた。俗名を佐藤義清(のりきよ)という。
代々、勇士の武門であるため、鳥羽法皇の北面の武士として仕えていたが、誉ある身分を捨て、保延六年(1140)十月十五日、二十三歳の若さで出家した。
出家後、西行は吉野山の麓に庵を結んでいる。吉野山は、西行にとって在俗時から慣れ親しんでいた和歌の歌枕の地であり、清浄きわまりない桜の名所であった。それに西行は吉野山の桜をことさらに愛して和歌に心情を託している。それになによりも、吉野山が古来からの霊地であることが、修行したいという西行の本意に叶っていたからであろう。それゆえ
”花に染む心のいかで残りけん捨てはててきと思ふわが身に”(出家したばかりなのに、どうしてこんなにも桜の花に魅了されるのだろう。)
”わりなしや氷る筧の水ゆゑに思いすててし春の待たるる”とあり、冬景色に心を奪われながらも、寒冷に身を置く自分に春が早くこないかとは何事だと、弱い己の心を嘆じている。
”とりわきて心も凍みて冴えぞわたる衣川見に来たる今日しも”の様に、奥州藤原氏の本来の面目をまのあたりにみて、武人のそれに還り感動している歌も残している。さて、西行は、一冬を陸奥で過ごしている。年の暮れに詠んだとして、
”常よりも心ぼそくぞおもほゆる旅の空にて年の暮れぬる”があるが、ここでは旅立ちのころの気負いが失せている。ひっそりと過ぎていく年を味わっていたのであろう。
■天野の地高野山から京へ上る道で、天野を経る道がある。この地、天野(現在の和歌山県伊都郡かつらぎ町)は田畑がなめらかで人家がひっそり佇む端正な風土で、まるで桃源郷を彷彿させる。当時、京へは天野から笠松峠を越え、六キロの山坂を下らねばならなかった。天野は、西行が高野山からたびたび訪れ、田を耕した場所とも言われる。西行田という地名も残っていて、この地はやさしく西行とのかかわりを受けとめた唯一の場所であったとも想像される(現在、西行ゆかりの地として小高い丘の上に、西行堂が建っていて、近くに西行の妻と娘のものと言われる二基の宝篋印塔がある)。
”浪の音を心にかけて明かすかな苫洩る月の影を友にて”天下の情勢を知る清盛と、清盛と違った意味で世相を大観する西行とは本質的に相通じるものがあったのではないか。
”深き山に澄みける月を見ざりせば思ひ出もなき我が身ならまし”
と詠んでいる。
西行は、白峰にある御墓を探り当て、
”よしや君昔の玉の床とてもかからむ後は何にかはせん”
としみじみ詠んでいる。
もう一つの目的は、弘法大師空海誕生の地を訪ねることだった。生を肯定する西行にとって、弘法大師空海の教えは相通じるものがあった。
■源平動乱治承四年(1180)は、源平動乱の始まりでただならぬ年であった。四月に後白河法皇第二皇子以仁(もちひと)王の平家追討の命令が、諸国の源氏に伝えられた。六月には都が福原へ遷都され、八月伊豆で源頼朝が、九月には木曾義仲が挙兵した。そのころ、西行は伊勢に庵を結んでいる。最初に結んだのは安養山(現在の度会郡二見町溝口の豆石山)といわれている。そして、のちに宇治(現在の伊勢市宇治館町)に移っている。俗に言う宇治の西行谷である。
治承五年(1181)には、平維盛らが木曾義仲追討のため北陸へ向かったが大敗。七月には平家の都落ちという、尋常ならぬ事態になっていた。西行は、伊勢の海でこの動乱を
”こは何事の争ひぞや”
とばかり詠んでいる。
”死出の山こゆるたえまはあらじかし亡くなる人の数つづきつつ”
治承五年(1181)には、平維盛らが木曾義仲追討のため北陸へ向かったが大敗。七月には平家の都落ちという、尋常ならぬ事態になっていた。西行は、伊勢の海でこの動乱を
”こは何事の争ひぞや”
とばかり詠んでいる。
”死出の山こゆるたえまはあらじかし亡くなる人の数つづきつつ”
■陸奥ふたたびさて、西行は、二度目の陸奥を目指す。かつて若き日、陸奥に旅立った時より四十年の歳月が経ていた。旅の目的は、相知りたる平泉の藤原秀衡の館へ赴き、東大寺大仏殿復興資金を勧進せんがためだった。
西行はまず、鎌倉に向けて旅立ち、源平の戦いの勝者である源頼朝に逢っている。平泉に無事到着し、目的を果たした西行であったが、平泉でも、戦乱の余波が渦巻いていた。藤原三氏の滅亡を、西行はどこまで予測し得たのだろうか。
目的を果たした西行は、文治三年(1187)のいつごろか都に戻っていて、嵯峨の庵に暮らす身となっていた。西行は七十歳となっていて、明るい境涯を写すが如く、たはぶれ歌を残している。
”うなゐ子がすさみに鳴らす麦笛の声におどろく夏のひるぶし”老西行はあくまでもうらうらと明るい。
西行はまず、鎌倉に向けて旅立ち、源平の戦いの勝者である源頼朝に逢っている。平泉に無事到着し、目的を果たした西行であったが、平泉でも、戦乱の余波が渦巻いていた。藤原三氏の滅亡を、西行はどこまで予測し得たのだろうか。
目的を果たした西行は、文治三年(1187)のいつごろか都に戻っていて、嵯峨の庵に暮らす身となっていた。西行は七十歳となっていて、明るい境涯を写すが如く、たはぶれ歌を残している。
”うなゐ子がすさみに鳴らす麦笛の声におどろく夏のひるぶし”老西行はあくまでもうらうらと明るい。
■老境の西行年齢、和歌にも磨きが掛かった老西行。嵯峨の庵ずまいで、伊勢の内宮に奉献する「御裳濯河歌合」(みもすそがわうたあわせ)と外宮に奉献する「宮河歌合」にはさぞかし力を注いだと思われる。
”いは戸あけし天つみことのそのかみに桜を誰か植ゑはじめけん”
”神風にこころやすくぞまかせつるさくらの宮の花のさかりを”ここに見られるのは、神(仏)と桜と己が融合した宇宙である。常に求めたうららかさとやすらかさがある。
西行が高雄山神護寺を訪ね、明恵に語った言葉として、
「万物すべて虚妄の相である。その万物を詠むわたしは仏像を造る思い、秘密の真言を唱える思いである」と、「明恵上人伝記」に記されている。
”いは戸あけし天つみことのそのかみに桜を誰か植ゑはじめけん”
”神風にこころやすくぞまかせつるさくらの宮の花のさかりを”ここに見られるのは、神(仏)と桜と己が融合した宇宙である。常に求めたうららかさとやすらかさがある。
西行が高雄山神護寺を訪ね、明恵に語った言葉として、
「万物すべて虚妄の相である。その万物を詠むわたしは仏像を造る思い、秘密の真言を唱える思いである」と、「明恵上人伝記」に記されている。
”花よりは命をぞなお惜しむべき待ちつくべしと思ひやはせし”命あればこそと、感慨に耽る西行。いつしか弘川寺の幽玄な風致の中で、自分と同じように老いていく一本の桜に魅せられていったに違いない。現在、弘川寺の西行塚の年老いた山桜は傷ましくもあるが春になれば小さな花々が凛と咲きほころび、訪れた人々の心を愛情の念へと導く。
西行法師永眠の地
似雲法師は、西行の墓をこの寺に尋ね当て、当山に庵を結んで、西行堂を建立。自らもここに没しました。弘川寺には、樹齢350年余の海棠(バラ科の一種:府指定の天然記念物)があります。
また境内には西行記念館があり、西行直筆といわれる掛け軸をはじめ、西行法師にまつわる数多くの資料が展示されています。
アクセス
近鉄長野線「富田林」駅から金剛バス河内行終点下車(富田林駅から約30分)徒歩約5分
|
0 件のコメント:
コメントを投稿