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2011年4月15日金曜日

15日・64年ぶりに小学校教科書に復活される「稲むらの火」

  3月11日発生の東日本大震災から5週間が経過した。未曾有の規模の地震・津波という天災に加えて福島第一原発の人災ともいえる原子力放射能汚染を収めきれずに、復旧が遅々として進まない。
 政府は14日、復興ビジョンを描くため「復興構想会議」なるモノを立ち上げた。菅首相は冒頭「ただ元に戻すという復旧ではなく、改めてつくり出すという、創造的な復興をお示しいただきたい」と要請したとある。
 だが、見方によってはヤタラと委員会や会議を立ち上げて、首相としてのリーダーシップをとることなく、そこへ丸投げしようとするいつもの菅首相の逃げの姿勢が丸見えである。原子力利用を積極的に推進してきたのは長年にわたる自民党・公明党政権に他ならず民主党も同様であった。いまや国難に見舞われたわが日本の国には、政党間のいや同じ党内の争いをしている時間は許されず、国を挙げて取り組むべき多大な課題であろう。

 はたして、構想会議の特別顧問に就いた哲学者の梅原猛氏は「天災」や「人災」という言葉に触れたうえで、震災について「わたしは『文明災』だと思う。原発が人間の生活を豊かにし、便利にする。その文明がいま裁かれている」と指摘した、とある。わたしが、さきにブログで梅原氏だとこう言うだろうと、予告した通りであった。

 そうしているなか、地元紀州で安政の大地震で襲ってきた大津波から村人を高所に誘い、さらに再び津波から村を守るため村人の失業救済を兼ね、当時の金額にして4665両という大きな私財をなげうち約4年間を掛けて広村堤防を築き、ラフカディオ・ハーンに「生きる神」と称えられ、小学校教科書にも「稲むらの火」として採り上げられた逸話が再び採用されたそうだ。
濱口悟陵

紀州・広村

 この主人公濱口悟陵こと第7代濱口儀兵衛は、ただ単に大津波から村人を救っただけにとどまらない。その後の考え方行いが数段凄いと云わざるを得ない。それも私財を投じてである。彼はその思想として「経世安民」(うまく世を治め、民心を安定させる)を生涯貫き実行したことでも知られ、わたしもブログで昨年10月17日「稲むらの火祭」と濱口悟陵、20日「稲むらの火」に見られる濱口悟陵の偉業とその精神として詳しく記述しているので併せてご覧頂き、ここでは64年ぶりに教科書に採り上げられたことを紹介させて頂くに留めたのでご理解下さい。この際学ぶべきは小学生のとどまらず、それに先だって政治家諸氏には是非この精神をこの度の復興に生かした諸施策として行われることを望みたい。
   ◇        ◇
津波の教訓、64年ぶり教科書に 「稲むらの火」が復活
広村堤防

 江戸時代に紀州藩広村(現・和歌山県広川町)を襲った大津波から人々を救った実業家浜口梧陵がモデルの物語「稲むらの火」が、浜口の伝記の形で、4月から使われる小学5年の国語教科書に載る。
 物語は1937年から10年間、国定国語教科書に載っており、64年ぶりの復活だ。津波の教訓を子どもたちに再び伝えることになる。


「百年後のふるさとを守る」


稲むらの火















 発行する光村図書出版(東京)によると、教科書は全国の公立小の6割で使われる。東日本大震災の発生前から掲載が決まっていた。鷲巣学編集本部長は「子どもたちに助け合いの気持ちや郷土への思いを学んでほしい」と話している。
 物語は1854年、安政南海地震で広村が大津波に襲われた際、浜口がわらに火を放ち、暗がりで逃げ惑う村人を高台に誘導したという実話に基づく。作家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が明治時代に英語で小説化し(A Living God 生きる神さま)、それを基に地元の小学校教員が児童向けに翻訳、再構成した。
 
 今回の伝記は「百年後のふるさとを守る」と題し、防災に詳しい河田恵昭関西大教授が書いた。物語の概要を紹介した上、その後の話として、浜口が次の津波に備えるため私財を投じ、住民とともに4年をかけて全長約600メートルの堤防を完成させた史実を取り上げた。
 「稲むらの火」はアジア各国の言語にも翻訳され、2004年のスマトラ沖地震による津波被害後には、当時の小泉純一郎首相とシンガポールのリー・シェンロン首相との間で話題になったこともある。
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「稲むらの火の館(濱口悟陵記念館)」アドレス
http://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/

4 件のコメント:

  1. モノノフでござる。
    これは奇遇でござりまするのぉ ^w^
    それがしも実は今日の記事に、たまたまじゃが桃山町の稲むらの写真を掲載致し申した!
    最近では稲むらも珍しゅうなってしまいましたのぉ^^;

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  2. しげやん07102011年4月17日 17:40

    モノノフ殿
    モノノフ殿の遠い祖先は穂積姓鈴木氏では御座るまいか?
    さすれば「稲むら」とは親戚にて御座る。
    近頃は「稲むら」を目にすることがトンとなくなり申した。
    わが紀州に世界に誇る防災の先駆者が居り申したこと大いに
    自慢すべきこと、この精神を受け継ぎ見事に復興を遂げて
    欲しく思いまする。

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  3. ネココロネ。2011年4月17日 20:58

    あれー?僕も小学校くらいの時に学校で稲むらの火教わった記憶ありますけど、教科書に載ってなかったんですね(;・∀・)ってことは「道徳」か何かの授業で取り上げられたのかな?
    まあ、最近になって舞台が和歌山だった事を知ったわけで…現代っ子たちには、是非とも知っておいてほしいですね。

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  4. しげやん07102011年4月18日 11:12

    ネココロネさん
    濱口悟陵氏の偉大さは、津波が襲ってきたのを知り村民を
    高台へ避難誘導するのにトッサに「稲むら」に火を付けた
    というよりは、再び津波が襲ってきても村が守られるよう
    に莫大な私財を投じて津波で田畑を失った村人の失業救済
    をかねて強固な堤防を築いたコトにあると思います。
    国を発展させるには人を育てることが最も重要と考え今の
    耐久の前身の教育機関も設立したりしています。
    のち彼は商人身分でありながら行き詰まった紀州徳川藩の
    財政再建を託されて藩の勘定奉行に、明治になり初代県会
    議長に、また明治政府の初代逓信相(いまでいう郵政)を
    務めるなど、地元和歌山が誇る人物です。この前後和歌山
    では誇りうる人物を輩出しています。政治家の陸奥宗光・
    津田出・博物学者南方熊楠等々です。紀州徳川藩は高い水
    準の文化を誇っていますたが、いまや昔の面影はありません。残念なことです。

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