世の中に何がおこっても、そういうことに関係なく花を付けて呉れる。
きょうは、地元桜の名所・紀三井寺の山門登り口の桜と、近場「紀三井寺緑道」の桜の様子をお目に掛けよう。
紀三井寺山門入り口の桜 |
今日は日曜日、曇り空、気温10度程度の肌寒であるが、このなかバべキューを愉しむグループの姿も見られた。
「紀三井寺緑道」琴の浦側入口 |
紀三井寺緑道・琴の浦トンネル付近 |
紀三井寺競技場付近 |
紀三井寺競技場公園 |
紀三井寺緑道琴の浦側 |
温山荘園 |
温山荘。枝垂れ桜 |
話が替わるが、わたしの処から約100km南へ下った「熊野古道」(田辺市)中辺路町近露の里に「名物桜」がある。
それもこの地を支配してきた豪族で、元弘の変で有名な大塔宮護良親王「熊野落ち」(「太平記」)のとき、宮にお味方し、守護した野長瀬一族の末裔の家の樹齢二百数十年の古木桜なのである。
大塔宮熊野落ちについては、このブログでも昨年12月26日「熊野古道」の項で、大塔宮熊野落ちの故事を紹介したが、そこにも一部登場する。
◇ ◇
和歌山県田辺市中辺路町近露、野長瀬智子さん(87)方で、市の天然記念物に指定されているシダレザクラが見ごろを迎えている。風格ある老木がピンク色に染まり、季節感を漂わせている。
サクラは江戸中期の1747(延享4)年、野長瀬家19代六郎可盛(よしもり)が、京都から苗木を取り寄せたと伝えられている。先代、野長瀬盛孝(医師、2001年死去・「野長瀬の流れ」の著書も著している)の後、現在はその細君の智子さんが、野長瀬の家名と中辺路町指定の天然記念物で、紀南を代表する大木のシダレザクラを守っておられる。
樹高は約10メートル。小ぶりの花をつけた枝が辺りに張り出し、そばを通る道路上に垂れ下がっている。
趣あるシダレザクラを撮ろうと、開花を待ちわびた写真愛好者らがシャッターを切っている。近所の家族連れも散歩をしながら楽しんでいる。
野長瀬さんは「花が咲いたので、サクラのそばに長いすを用意した。気軽に立ち寄ってもらえたら」と話している。 花は天候にもよるが、10日ごろまで楽しめるという。
【見ごろを迎えているシダレザクラ(1日、和歌山県田辺市中辺路町近露で)】
「野長瀬一族についての故事」
国道311号線を近露に入ると、間もなく道の北側に小さな丘陵が見えてくる。その明るい共同墓地の地続きに、「野長瀬一族の墓」がある。南朝を守った強者たちをまつるその墓には、五輪塔が五十四基と、宝篋印塔が六基。県文化財。
野長瀬家は、もともと清和源氏の流れをくみ、盛経の子、経忠が野長瀬姓を名乗り吉野に住んだ。寛喜元年(1229年)、その子の頼忠が庄司六郎と称し近露へ。元弘二年(1332)頼忠の孫・盛忠が、奈良を追われて熊野へ落ちのびる大塔宮護良親王を足利軍から救出、その功で横矢姓を賜わった。さらに後醍醐天皇に加勢し、河内・千早城に孤立した楠木正成に、はるぱる山を越えて兵糧を運んだという。
先代の盛孝氏(大正二年生)は28代目。(田辺市)中辺路町は、一族と正成の友情にちなみ、千早赤坂村と姉妹縁組みし、歴史の町の友好を結ぶ。 盛忠の流れをくむ野長瀬家と横矢家は近露に多い氏姓である。
野長瀬一族の墓・県指定文化財 |
お久しぶりです!
返信削除桜が咲き始めて暖かくなってきた来たと思った矢先の今日の冷え込み。
春の出鼻をくじかれ縮こまってました。
中辺路にこんなしだれ桜があったんですね、知りませんでした。
ネココロネさん
返信削除熊野古道沿いで桜の有名なところがあります。
中辺路の野中の清水の先にある「継桜王子」です。
ここの桜は何代目になるのかよく知らないですが、
中尊寺で有名な奥州藤原氏の藤原秀衡が、熊野参詣の
途次ここへ桜の枝を差しました。それが見事に大きく
なった言い伝えが遺されています。熊野古道は平安時代
から栄えましたから、古くからの伝承があちらこちらに
遺されています。それらを辿るのも面白いです。
こんばんは。
返信削除たぶん、和歌山のほうが京都より桜が咲いていると思います。
私が写した桜は、咲いているのを探して探して撮ったものですから。
それにライトアップされて白っぽく見えていても、近づくと蕾だけという木も多かったです。
京都も見ごろも今週末ごろでしょうか。
megさん
返信削除紀三井寺がある名草山にはあちらこちらに山桜があります。
いまが紀三井寺の桜は5,6分咲きですが、山全体がおぼろ
な感じに包まれた風情です。この時期こんなにも山桜がある
んだと、改めて感じる今日の日ですが、直ぐに葉桜になり、
周りと同じ緑に変わって仕舞いますが!春宵一刻値千金!