和歌山を拠点に活動する劇団ZEROが3月2日㊏、『日本書紀』にその存在が記された女王、名草戸畔(なぐさとべ)を主人公にした舞台「名草姫」を上演します。好評を博した3年前の同作を再演。今回の#イマワカtalkは脚本を手がけた島田忠代表(58)、名草姫役を務める藤本理恵さん(50)に、作品への思いを尋ねます。(文中敬称略)
神話の時代へ
──名草戸畔はどんな人物ですか。
島田「紀元前、今の和歌山市の大部分と海南市の一部を治めたと伝わる女王です。初代神武天皇が統一国家建設を目指し、皇軍を率いて現れた時、名草戸畔は皇軍と戦ったのか、降伏して平和的に解決したのか、諸説あります。作品は、後者の説に基づき、名草の人々の苦悩と選択、その後を描きます」
──3年前はアンコール公演をするほど、大好評でした。
藤本「前回の上演後、お客さんが泣きながら抱きついてきてくれました。けれど、なぜか泣きながら笑っていたんです。重苦しくなくて、すっきり泣いて帰ってくれたのはうれしかった」
島田「再演を望む声が今も多く、改めて上演することにしました。世の中に、様々な場面で怒りの感情が増え、戦いが美化される風潮になりつつあると感じます。争いを好まない名草人を描くこの作品を今、再び演じる意味は大きい」
戦わない強さ
──藤本さんは名草姫を演じます。
藤本「作品では名草戸畔を名草姫として主人公にしています。名草姫は人間であり、神でもある、不思議な存在。役作りは悩みました。おそらく名草姫は普段、周りの人と接することなく、第六感を研ぎ澄ましていたのではないでしょうか。私も極力周りの人と話さずに雑念を取り払うことで、隔離された感覚を得ました。その感覚を持って、舞台に上がります。今回は、シャーマンとして生きる名草姫の人間性を強調します」
──見どころは。
島田「戦わないことの強さ、我々の先祖の知恵や努力です。古代の人々は、刺激にあふれた中で暮らす現代人よりずっと感性が鋭く、森羅万象を五感で感じていた。名草姫は特に敏感だったはずです。彼らが感じた自然界の不思議な力が集まるのが、名草戸畔ゆかりの中言神社(和歌山市吉原)。現地に立つと不思議な感覚になり、導かれるように脚本が書き上がりました。神々への畏怖を感じつつ私も演じます」
藤本「地元の伝承が長い年月を越えよみがえります。自分たちのルーツにつながる身近な歴史としてとらえ、名草人の気質を感じてほしい」
舞台「古代わかやまの女王伝説『名草姫』」
3月2日㊏午後5時、和歌山市民会館小ホール。2000円、当日2500円。同館ほかで取り扱い。同劇団HPからも購入可。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------名草戸畔伝承 今再び 地元2劇団 創作し舞台化 古代の心 現在へ問う
奈良時代に成立した歴史書『日本書紀』に名が残り、縄文時代から西暦200年ごろまで名草山を中心に和歌山市から海南市までを治めたと伝わる名草戸畔(※)。古代女王として関心が高まるこの伝承をもとにした演劇が10月から11月にかけ地元2劇団により上演される。
劇団ZEROの『名草姫』と劇団KCMの『なぐさとべ』。いずれも名草戸畔を通じ、自然や平和を愛する心を現在に問う内容で、伝承の新たな始まりを感じさせる。
劇団ZEROの『名草姫』と劇団KCMの『なぐさとべ』。いずれも名草戸畔を通じ、自然や平和を愛する心を現在に問う内容で、伝承の新たな始まりを感じさせる。
シェークスピア作品の上演で知られる劇団ZERO。島田忠代表は、イラストレーターのなかひらまいさんの著作『名草戸畔』を昨秋に読み、台本を書き始めた。「なにげなく書いていたら内容がふくらみ、和歌山のルーツにふれる気がした」と舞台化に踏み切った。
統一国家をめざす皇軍と向き合う古代名草人の物語。自然と共存し、争いを好まない名草人の暮らしと、女王名草姫の政治的決断が山場となる。
出演者はゆかりの神社を巡った。名草彦・名草姫をまつる中言神社(和歌山市吉原)では映像を撮影。名草姫役の藤本理恵さんは「和歌山の緑の濃さを感じました。役を思うだけで涙が止まらなくなる。この気持ちを見る人に伝染させたい」。
名草の祈り歌などを作り、古代をファンタジックに演出する。巫女役の川端恵さんは「今回は和歌山には何もないと思っている人に向けた名草戸畔からのメッセージだと思っています。ただの歴史物語とは違います」。
島田代表は「自然の恵みに囲まれ、名草には何でもあると考えが変わった。和歌山に住む私たちの本来の姿はこうだったのでは…と思ってもらえたらいいですね」と望む。
一方、海南市の劇団KCMは、有間皇子、井澤弥惣兵衛ら歴史上の人物を演劇にし、その生き様から和歌山の文化を伝えてきた。東道代表は同市出身で、「幼い時から名草戸畔の名は耳にしていた。発掘されていない歴史を伝え、クローズアップしたかった」と語る。
過去の研究、学芸員らへの取材から東代表が原作を練り、京都を拠点に時代劇再生に努める小林薫さんが脚本化した。
舞台は西暦300年ごろの名草国。鉄器文化を持つ民族が国を一つにしようとやってくる。戦を避けようとする女王なぐさとべと娘、名草姫の成長が物語の核だ。小林さんは「戦争が話題に上ることの多い中、平和や本当の豊かさを考えてもらえれば」と力を込める。
演出は東映太秦映像の中野広之監督。日本のポップスを多用し、動きのある演出で世代を問わず楽しめる内容にする。中野監督は「地元の伝承でゼロから作るのは力が入ります。テーマは、力による解決ではなく、コミュニケーションです」。東代表は「善を信じ自然を守る古代人の心を表現したい。今回を出発点にさらに幅広く発信したいですね」と意気込む。
名草戸畔の頭部がまつられたと伝わる宇賀部神社(海南市小野田)の小野田典生宮司は「地元ではあまり知られていなかったのですが、『名草戸畔はすごいパワーだったみたいですね』と神社に来る人が増えました。『日本書紀』に一行あるだけで、忘れられても仕方ないのに注目され、若い人が関心を持ってくれる。次の世代へも伝わり、心強い」と歓迎している。
※名草戸畔=『日本書紀』には、「神武東征で殺された」と記され、頭、胴体、足が宇賀部、千種、杉尾の三神社に埋められたと伝わる。5年前にイラストレーターのなかひらまいさんが『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』を出版。郷土史家の小薮繁喜さん、宇賀部神社の分家筋にあたる小野田寛郎さんの口伝を通じ、新たな名草戸畔像を提示し、注目された。なかひらさんは現在、本紙で「名草戸畔伝承を訪ねて」を連載中。
--------------------------------------
名草山(和歌山市) | 中言神社(和歌山市吉原) | 内原神社(和歌山市内原) | 中言神社(海南市黒江)
水門吹上神社 | 矢宮神社 | 激戦地のクモ池 | 宇賀部神社 | 杉尾神社 | 千種神社
ご祭神・名草彦命/名草姫命
天鈴55年、紀元前663年、神武天皇、饒速日山からの退却
神武天皇一行は饒速日山で長髄彦命の弓矢を受けて五瀬尊が傷つき、命からがら草香津まで戻ってきた。
追手の追撃を防ごうと盾を並べて雄叫びをし、待ち構えていたが敵は追ってこなかった。
会議を開いて、大和に西側から侵攻するのは不可能であることを悟り、南からの侵攻を考えた。
追手の追撃を防ごうと盾を並べて雄叫びをし、待ち構えていたが敵は追ってこなかった。
会議を開いて、大和に西側から侵攻するのは不可能であることを悟り、南からの侵攻を考えた。
五瀬(ゐつせ)御子(みこ) | 肱(ひぢ)お射(い)られて | |
進(すす)み得(ゑ)ず | 天皇(すめらぎ)触(ふ)れる | |
議(はか)り事(ごと) | 「われは日(ひ)の孫(まご) | |
日(ひ)に向(むか)ふ | 天(あめ)に逆(さか)えば | |
退(しりぞ)きて | 神(かみ)お祭(まつ)りて | |
日(ひ)のままに | 襲(おそ)はば仇(あだ)も | |
破れん」と | みな「しかり」とて | |
八尾(やお)え退(ひ)く | 仇(あだ)もせまらず | 大阪府八尾市 |
天鈴55年、紀元前663年、神武天皇、和歌山へ進軍・・
早速船に乗り、草香津を出航した。
出航直後、嵐がやってきて船の梶が折れたので、梶無の地に上陸し船を修繕した。途中(日部神社)で休息をとり、大津町あたりに上陸して五瀬命の傷を洗っていたところ土地の豪族横山彦命が現れた。彼は仮宮(男乃宇刀神社)を作ってくれ、佐野命一行はこの地でしばらく休息した。
横山彦命から周辺の地理を聞くうち、この地から西へ向かえば、葛城山の南端から大和へ入れることがわかり、症状が悪化している五瀬命をこの地に残して、奥地に入っていった。
現在の河内長野市の蟹井神社の地まで到達して、行程の無事を祈願して紀見峠から大和に入ろうとしたが、南からの進入口にも反乱軍が配置されていることがわかり、南からの進入も断念して仮宮の地に戻った。
南からの進入も不可能である。
どうすれば大和に入れるか会議を開いたところ、紀伊半島には天道根命や高倉下がいて、彼らの協力が得られそうであり、また、長髄彦命の反乱軍鎮圧に呼応できそうな動きが大和国内の東側に多いことから、紀伊半島を迂回して東側(伊勢湾)より大和に侵入することに決定した。
神武天皇一行は仮宮を出航して南下した。
現在の泉佐野あたりに上陸したところ、長髄彦反乱軍に呼応した土地の豪族に急襲されたが、何とか撃退することができた。前途多難である。
そのため、近くの日根神社の地で神を祭り無事大和に入れるように祈願した。
さらに南下したが、男里近くで五瀬命の様態が悪化したため、男神社摂社浜宮の地に上陸して五瀬命を介抱した。
しかし、5月8日、五瀬尊はこの地で亡くなった。
盾津を出発してから半月ほどで経った時である。
高倉下とは饒速日尊の子という説もあるが・・
「饒速日尊」と瓊々杵尊の兄・奇玉火之明尊は混同されて語られることが多い。両者が混同されているという理解に立てば、高倉下とは奇玉火之明尊の養子に入った田倉麿命(たぐらまろ)と考えられるのではないか?
田倉麿命(たぐらまろ)は、養子に入ってすぐ、初瀬姫の気に入られず破談になっている。
瓊々杵尊の兄・奇玉火之明尊が崩御されて後、田栗命(田倉麿の父)が初瀬姫と田倉麿命(たぐらまろ)の調停に入ったが失敗。
その結果、火明尊(瓊々杵尊の長子)の長子・国照宮が饒速日尊と改名し、瓊々杵尊の兄・奇玉火之明尊の養子になった。
こうした経緯が、「高倉下は饒速日尊の子」という伝承の下地になったのではないか?
田倉麿命(たぐらまろ)は、瓊々杵尊の兄・奇玉火之明尊との養子が破談になったのち、高倉下を名乗ったのではないか?
高倉下とは、立場が違っていれば饒速日尊の位置にいた人であったのかもしれない。
神武天皇一行は、天道根命のいる和歌山で五瀬尊を埋葬するために、男里で亡くなった五瀬命の遺骸を船に乗せて、紀淡海峡を越えて南下し、紀ノ川河口の水門吹上神社の地に5月10日ごろ上陸した。
天道根命は長髄彦命の反乱軍に呼応する一部の名草一族の動きを警戒しながら、奥地の竈山神社の地に五瀬尊を埋葬した。
まもなく、長髄彦命の反乱軍に呼応するものたちは中言神社(和歌山市吉原)の地に戦いを仕掛けてきた。
浜の宮で戦勝祈願を行い、琴の浦、船尾と船を進め、船尾に船を着けて上陸した。
汐見峠を越えて、中言神社(和歌山市吉原)を攻めている反乱軍の背後に回ろうとしたところでそれを察知した反乱軍が神武天皇一行を迎え撃つ形になった。
連合軍は退却した反乱軍を追って、東へと追撃し、宇賀部神社(海南市小野田)、杉尾神社(海南市阪井)、千種神社(海南市重根)の地に追い詰めて鎮圧した。
本拠地の地に、反対派の3首領を祀り変えたのだろう。
日本にはこういう祀り方が多い。
天道根命は長髄彦命の反乱軍に呼応する一部の名草一族の動きを警戒しながら、奥地の竈山神社の地に五瀬尊を埋葬した。
長髄彦命の反乱軍に呼応するものたちは、高倉山(杉尾神社の御神体山)を拠点として同調者を集めた。
長髄彦命の反乱軍に呼応するものたちの動きを察知した天道根命は、佐野命一行を矢宮神社 の地に避難させた。まもなく、長髄彦命の反乱軍に呼応するものたちは中言神社(和歌山市吉原)の地に戦いを仕掛けてきた。
名草彦が応戦する中、佐野命一行は矢宮神社 の地に陣を構えて様子を見た。
戦いは長髄彦命の反乱軍に呼応するものたちの優勢の中で行われており、佐野命一行は天道根命の要請に応じて戦闘に協力することになった。
神武天皇軍が反乱軍の背後に回り込み、挟撃する作戦をたてた。
神武天皇一行は、天道根命の案内で矢宮神社 の近くの和歌の浦を出航し海岸沿いに南下し毛見浜に上陸。浜の宮で戦勝祈願を行い、琴の浦、船尾と船を進め、船尾に船を着けて上陸した。
汐見峠を越えて、中言神社(和歌山市吉原)を攻めている反乱軍の背後に回ろうとしたところでそれを察知した反乱軍が神武天皇一行を迎え撃つ形になった。
神武天皇軍と反乱軍はクモ池周辺で激突した。
反乱軍の背後から名草彦の軍が攻め、挟み撃ちの形になった反乱軍は形勢不利となり高倉山に退却した。連合軍は退却した反乱軍を追って、東へと追撃し、宇賀部神社(海南市小野田)、杉尾神社(海南市阪井)、千種神社(海南市重根)の地に追い詰めて鎮圧した。
本拠地の地に、反対派の3首領を祀り変えたのだろう。
日本にはこういう祀り方が多い。
この戦いは戊午6月23日と思われる。
天道根命の名草一族にも長髄彦反乱軍に呼応する動きが・・
神武天皇が和歌山市にやってくる頃は、天道根命がこの周辺を統治していたと思われる。これが名草一族である。神武天皇が長髄彦命の反乱軍を鎮圧するという話は紀伊国にも伝わってきており、神武天皇の呼びかけに応じるもの、反乱軍に呼応するものが入り乱れていた。
それは名草一族でも同じであった。
名草一族が神武天皇一行と戦闘をしているという伝承と、後の紀伊氏の系図に名草の名が残り大和朝廷の協力者になっているという事実から、名草一族のなかでも神武天皇の呼びかけに応じるもの、反乱軍に呼応するものが入り乱れていたことが理解できる。
浜の宮の伝承から天道根命は佐野命に協力している姿が浮かんでくる。
名草一族の本拠地と考えられる場所は名草山の北東に位置する中言神社の地である。この地は五瀬命の御陵の目と鼻の先である。このことは、五瀬命の葬儀を見守っていたか協力していたことを意味し、神武天皇一行と対立していたとは考えにくい。伝承をつなぐと、佐野命軍は矢宮神社の陣地を出発し和歌の浦を出航、琴の浦に上陸し船尾から汐見峠を越え、クモ池周辺に攻め込んでいる。
この経路から判断すると、長髄彦命の反乱軍に呼応するものの本拠地は高倉山周辺だったのだろう。
以上いまに遺るふる里のいにしえの伝承をあちらこちらから集めて編纂してみました。
0 件のコメント:
コメントを投稿