写真・図版開業100周年を迎えたJR東京駅=20日
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丸の内駅舎を背に、東京駅の思い出を語る多児さん=東京都千代田区
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  20日に開業から100年となったJR東京駅東京都千代田区)。
写真・図版写真・図版丸の内駅舎は2年前、1914(大正3)年の開業時の姿に復元され、この日を迎えた。高層化の波にのみ込まれず、優美な姿を保った首都の玄関口。その成熟した趣が、人々を魅了している。
  • 【特集】東京駅100周年
  •  2003年に国の重要文化財に指定された丸の内駅舎だが、再開発で取り壊される危機もあった。復元と保存を後押ししたのは「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」だ。今年10月、27年の活動に幕を閉じた。
周辺の再開発に合わせ、東京駅の高層ビル化が浮上したのは87年4月。市民の会の事務局役を長く務めた多児(たに)貞子さん(68)=東京都豊島区=は当時、丸の内駅舎の目の前のビルで働いていた。夕方、西日を浴びて駅舎がピンク色に輝く時間が好きだった。「ガラス張りの四角いビルは、どうしても嫌でした」

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  •  20日に開業から100年となったJR東京駅東京都千代田区)。丸の内駅舎は2年前、1914(大正3)年の開業時の姿に復元され、この日を迎えた。高層化の波にのみ込まれず、優美な姿を保った首都の玄関口。その成熟した趣が、人々を魅了している。
     2003年に国の重要文化財に指定された丸の内駅舎だが、再開発で取り壊される危機もあった。復元と保存を後押ししたのは「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」だ。今年10月、27年の活動に幕を閉じた。
     周辺の再開発に合わせ、東京駅の高層ビル化が浮上したのは87年4月。市民の会の事務局役を長く務めた多児(たに)貞子さん(68)=東京都豊島区=は当時、丸の内駅舎の目の前のビルで働いていた。夕方、西日を浴びて駅舎がピンク色に輝く時間が好きだった。「ガラス張りの四角いビルは、どうしても嫌でした」
     知り合いの主婦らと連絡を取り合い、JR東日本へ復元と保存の要望書を提出。「取り壊しの話は以前もあった。保存するには建設当初の姿に戻し、歴史的価値を高めることが必要と考えました」。同年12月に市民の会を設立。88年5月までに、全国約10万人の署名を衆参両院に提出した。
     保存にはコストや技術の面から、JR東でも意見が割れていた。会員は幹部を何度も訪ねて訴えた。
     当時の設備課長で、現在はJR東の子会社であるビューカード会長の叶(かのう)篤彦(あつひこ)さん(68)は「ハードルの高さは知っていたので複雑な気分だった。でも、駅を愛してくれる思いがうれしかった」、当時の東京駅長・木下秀彰さん(81)も「どれだけ復元への支えになったか」と振り返る。
     動きは乏しく、90年2月14日、会員らはバレンタインのチョコレートを木下さんや後に社長になる松田昌士常務(当時)らに贈った。訪問の口実づくりだったが、チョコは毎年恒例となった。99年10月、都とJRが復元、保存に合意。総事業費約500億円に「すごいバレンタインのお返しだね」と会員らは喜んだ。
     多児さんは今、駅舎にカメラを向ける観光客をみるたび、うれしくなる。「この姿を残せてよかった。肩の荷がおりました」
     明治以降の鉄道の発展に伴い、郊外と都心を結ぶ各鉄道のターミナル駅を集約したのが東京駅だ。場所はすでにあった新橋、上野の両停車場の間だった。
     駅舎は当初、お雇い外国人のドイツ人技師フランツ・バルツァー(1857~1927)がデザイン。瓦を使った和風建築を、鉄道作業局は採用しなかった。鉄道博物館さいたま市)の奥原哲志・学芸員は「西洋文化に近づこうとしていた当時の日本人には、受け入れがたいデザインだった」。後任は日本銀行本店も手がけた建築家の辰野金吾(1854~1919)。赤れんがと白い花崗(かこう)岩で、西洋風に仕上げた。
     関東大震災(1923年)は持ちこたえたが、米軍の空襲で45年、丸の内駅舎は屋根や内装を焼失した。東京大の松丸道雄・名誉教授(80)=中国古代史=は数少ない生き証人だ。戦争で東京から静岡へ疎開したが米軍機が飛来し始め、45年6月に埼玉へ再疎開。乗り換えで、破壊された東京駅に降り立った。
     滞在時間は30分だけ。母親と伯父が迎えてくれ、「ホームで地べたにすわり、白米のにぎりめしにかぶりついた」。終戦後、駅に行くと、丸の内駅舎の屋根は焼け落ち、日が差し込んでいた。雨の日は、駅の中を傘をさして歩いた。
     戦後は少なくとも2度、高層化計画が持ち上がった。最初は58年。当時の十河(そごう)信二・国鉄総裁の指示で描かれた、近代的なビルの図案が残る。そして87年の計画も実現しなかった。丸の内駅舎は戦後の応急処置で、3階建てが2階建てに、南北のドーム屋根も八角形に変わっていたが、5年半の工事を経て、2012年10月に復元された。
     松丸教授は昔に戻った駅舎を見て、違和感を覚えた。「空襲で焼け落ちる前の屋根は、一部が鮮やかな緑色だったはずだが」。工事後の銅板は真新しく、「暗い赤」だった。時が経てば、酸化で緑色に変色する。「いつかこの赤も緑色になるのでしょうね。その時、懐かしむ人はいないでしょうけれど」!!!
     
    ●これに合わせてSUICAを1枚\2000円で合計15000枚販売の予定だったが、早朝から9000人以上の買い求め客が詰めかけ、腕も動かせない大混雑、、これを危険とみた東京駅が約8000枚を販売した時点で販売をストップした。記念の記念Suicaは早速インターネットでプレミアム付の高値で多数売りに出された。1枚¥100.000円とも噂されている。これでは何のための記念発売か分からない。果たして残りの7000枚の販売はどうなるなるのであろうか?


    ◆記念Suica販売で大混乱、販売中止