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2014年6月10日火曜日

漱石の未発表俳句、和歌山で見つかる 

漱石の未発表俳句、和歌山で見つかる 同僚教師に手紙・朝日新聞・6月10日

夏目漱石については、このブログでも和歌浦の名所案内の記事のなかで、和歌浦の「望海楼」に宿をとり、翌日講演会を開催したこと、望海楼の西に設置されていた東洋一と称するエレベーターに搭乗したことなどが漱石の小説「行人」に記されていることを紹介したが、

「100年前の和歌浦と夏目漱石の関わりの話」:http://o-shige3.blogspot.jp/2011/09/100.html


今回は漱石の未発表の俳句で、それも小説「坊ちゃん」に当時松山中学校で教鞭をとる友人の漢文教師として登場する実在の人物であり、その孫が祖父の遺品から発見されたそうだ。


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夏目漱石が猪飼健彦さんに宛てた手紙。末尾には俳句を添えている
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 文豪・夏目漱石(本名・金之助=1867~1916)の未発表の俳句を添えた手紙が和歌山市内の旧家で見つかった。教師として愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現松山東高)から熊本県の第五高等学校(現熊本大)に赴任する1896(明治29)年に同僚だった教師に宛てた手紙に添えられた直筆の句で、研究者は「漱石の当時の心境を知る第一級の資料」とする。
 

 手紙(縦約15センチ、横約51センチ)の末尾には俳句がしたためられ、俳句1句ずつを記した2枚の短冊(縦約35センチ、横約6センチ)もある。この3句のうち2句が未発表とみられる。これらは封筒とともに掛け軸に貼られた状態で、和歌山市の元会社員、猪飼弘直さん(86)の自宅で保管されていた。

 猪飼さんの祖父、健彦(たけひこ)さんは、小説「坊っちゃん」(1906年)の舞台として知られる愛媛県尋常中学校で漱石と同じ時期に教鞭(きょうべん)を執っていた。漱石の手紙は健彦さんに宛てたもの。お別れのあいさつに漱石を訪ねたが会えなかった健彦さんが手紙を送り、それに対する返礼だという。
 

 漱石は手紙で「昨日は御来訪被下候処(ごらいほうくだされそうろうところ) 何の風情も無之(これなく)失敬仕(つかまつり)候」と不在をわび、健彦さんが手紙に添えた短歌の短冊を「君の記念に可致(いたすべく)」として箱にしまうと記したうえで「花の朝 歌よむ人の 便り哉(かな)」という自作の俳句で結んだ。
 

 漱石の研究者で国文学研究資料館(東京)の野網(のあみ)摩利子助教(日本近代文学)によると、手紙も含めて筆跡は全て漱石のもので、この句は発表されていない。野網さんは「熊本への旅立ちを間近にして、春の季語を含んだ『花の朝』を用いた巧みな俳句」と評価。手紙とあわせて「文面から漱石の律義な人柄が伝わる。短歌に対して俳句で返礼したという、切り返しの妙も感じられる」と指摘する。

 漱石が短冊に記した俳句のうち「死にもせで 西へ行くなり 花曇(はなぐもり)」も未発表とみられる。野網助教は「東京から松山へ、さらに熊本へと西に向かい、のちに西洋に渡る漱石の前半生を凝縮したような興味深い俳句だ」と話す。残る短冊には「其(その)夜又 朧(おぼろ)なりけり 須磨の巻」と詠まれ、「漱石全集」にも収録されている。漱石がこの前年、親友の俳人、正岡子規に贈ったとされる。(平畑玄洋)
■手紙の文面
昨日は御来訪被下候處(くだされそうろうところ)
何の風情も無之(これなく)
失敬仕候高什数(つかまつりそうろうこうじゅうすう)
首正(しゅまさ)に落掌拝(らくしょうはい)
誦仕候(しょうつかまつりそうろう)永く筐底(きょうてい)
に蔵(ぞう)して君の記念
に可致候先(いたすべくそうろうまず)は御禮(おんれい)
迄草々頓首(までそうそうとんしゅ)
 卯月八日(うづきようか)
    金之助
 猪飼様
   研北(けんぽく)
花の朝歌よむ
人の便り哉(かな)
■漱石直筆の俳句
其(その)夜又朧(おぼろ)なりけり須磨の巻
          愚陀佛(ぐだぶつ)
死にもせで西へ行くなり花曇(はなぐもり)
          愚陀佛
(いずれも研究者・野網摩利子さんによる)
     ◇
 〈夏目漱石と俳句〉 漱石は30歳前後の若い時期を中心に俳句に熱心に取り組み、約2500句の俳句を作ったとされる。近代俳句の祖といわれる正岡子規(1867~1902)とは20代の時に大学予備門で出会い、子規からは俳句の腕を磨き合う「畏友(いゆう)」と呼ばれる間柄に。漱石が愛媛県尋常中学校に英語教師として赴任した際には、下宿先「愚陀仏庵(ぐだぶつあん)」で子規と約50日間同居した。
 
 

坊っちゃんの地、交流の句 教師漱石の実像映す手紙発見・6月10日

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夏目漱石が猪飼健彦さんに送った年賀状の文面
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 夏目漱石直筆の手紙と俳句が新たに発見された。愛媛から熊本へ赴任する際の同僚とのすれ違いが、情感のこもった俳句を生んだ。のちに「坊っちゃん」の舞台として取り上げた地に別れを告げる「教師・漱石」の実像がうかがえる。
 
 漱石の手紙を受け取った猪飼健彦さんは1868(明治元)年、現在の和歌山市の士族の家に生まれた。67(慶応3)年生まれの漱石より一つ年下。猪飼家に残る資料によると、国学院(現国学院大)で「国文」「国史」などを修め、95(明治28)~96年にかけて「坊っちゃん」の舞台となる愛媛県尋常中学校で国語や日本の歴史を教えた。
 

 漱石もちょうど同じ時期に同校で英語を教えていた。当時は帝国大を卒業して2年後で、最初の小説「吾輩(わがはい)は猫である」を発表する10年前。むしろ俳句に熱心に取り組んでいた。国文学研究資料館(東京)の野網摩利子助教は「健彦さんが国語教師として漢文を教えていたとすれば、高い漢文の教養を持つ同世代の漱石と親しかったことが想像できる」と分析する。
 

 漱石は手紙で、健彦さんが送った短歌について「高什数首正(こうじゅうすうしゅまさ)に落掌拝誦(らくしょうはいしょう)仕(つかまつり)候永く筐底(きょうてい)に蔵(ぞう)して君の記念に可致(いたすべく)候」と記した。素晴らしい作品として箱に収める、と約束する内容だ。野網助教は「健彦さんも漱石の応答の句を大切に思い、掛け軸に飾ったのではないか」とみている。

 熊本県の第五高等学校に移った3年後には、漱石から健彦さん宛てに「謹(つつしん)で新年の御慶申上(およろこびもうしあげ)候 小生儀(しょうせいぎ)大分県下旅行中にて」とする年賀状も届いた。漱石が愛媛を離れた後も2人の交流が続いていたとみられる。

 漱石の手紙や俳句が飾られた掛け軸を木製の箱にしまい、大切に保管してきた健彦さんの孫の弘直さん(86)は「祖父が松山時代、漱石の同僚だったことは母から聞かされました」と語る。健彦さんの長女である弘直さんの母親は、健彦さんに「『坊っちゃん』の登場人物のモデルではないのですか」と尋ねたことがあるが、健彦さんは答えようとしなかったという。

 「坊っちゃん」の作中には堅物で「愛嬌(あいきょう)のある御爺(おじい)さん」と描写される「漢学の先生」が登場する。弘直さんは健彦さんがこのモデルではないかと考えているが、「小説に登場する教師はあまり良い人物には描かれていないから、言いたくなかったのでは」とも想像する。(平畑玄洋)
     ◇
 〈小説「坊っちゃん」〉 無鉄砲でけんかっ早い東京育ちの数学教師「坊っちゃん」が、赴任した四国の中学校を舞台に、教頭「赤シャツ」らと葛藤を繰り返し、最後は同僚の数学教師「山嵐」と一緒に教頭らを懲らしめるという痛快な物語。「愛嬌のある御爺さん」として漢学の教師が登場する。「漢学の先生はさすがに堅いものだ」「左隣の漢学は(生徒の処分に関して)穏便説に賛成と云(い)った」などと、物静かな人物として描かれている。
     ◇
夏目漱石の歩み
1867年 0歳 東京都新宿区で生まれる
1890年 23歳 帝国大に入学
1893年 26歳 東京高等師範学校の英語教師に
1895年 28歳 愛媛県尋常中学校に赴任
1896年 29歳 熊本の第五高等学校に赴任
1900年 33歳 英国に留学
1903年 36歳 英国から帰国、東京帝国大などで教鞭(きょうべん)を執る
1905年 38歳 「吾輩は猫である」を雑誌「ホトトギス」に発表
1906年 39歳 「坊っちゃん」や「草枕」を発表
1907年 40歳 朝日新聞社に入社、「虞美人草」を連載
1914年 47歳 「こころ」を連載
1916年 49歳 「明暗」を連載。永眠
 
全文朝日新聞社の掲載記事から拝借しましたことをお断りします。また、NHKでもこのことが電波にのりました。

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